どうにも「外側から見た今年の宇多田ヒカルに対する評価」がわからない。桜流し一発なのでアーティストに対する評価云々云ってても仕方無い気がするが、年々邦楽を聴く割合が減っている当方としては、極端な話、宇多田ヒカルの居ない邦楽市場よりも邦楽市場はないけど宇多田ヒカルは居る、という状況の方がよりリアリティがある。日本語で歌われる他の新曲が生まれなくなっともまぁいいかな、と、、、ヒカルさえ歌ってくれていればいいんじゃないか、と身も蓋もない事を考えてしまう。それ位、桜流しを創って歌えるヒカルは別格であり別格過ぎて他と比較する気にならない。今までは「余りにヒカルに入れ込み過ぎていた為」に外側からみた視点を構築するのにひと難儀だったのだが、最早そもそもそれに意味を見いだせないという事だ。図抜け過ぎたな。
勝負として面白いのは動員数で、邦楽市場にはヒカルじゃかなわないミュージシャンがやまほど居る。今から生涯動員数でミスチルを追い抜けるかというと難しいんじゃないか。ジャニーズまで含めるとヒカルの動員数は二流の烙印を押されてしまいそうだ。うげげ。
まぁ次の五輪の年まで待つ事になると思うけどねー…。
という訳で2012年はとても総括し難い。というか総括がない。AKBが居ても居なくてもオリコンチャートは参考にならないしLIVEやってないから動員もないし。桜流し。三文字で総括終了である。敢えて言うなら、ね。こんな年は流石に二度と来ないんじゃなかろうか。豪快だ。4月にロンドンの地下鉄で一緒になった人に告げた"New Stuff Is Coming Soon"の一言に嘘はなかった。本当に新曲だった。満足至極。他に言う事がない。
もうそうなると桜流しのディテールの話を延々と続ける以外なくなる。まぁ最初っからそうだっけ。この曲のシーンの中での位置付けとか最早興味がない。先述の通り、レコード会社でのヒカルサイドの発言力が低下しない程度に売れれば十分である。そして十分に売れたので、中へ中へと入っていこう。
そろそろ読者の皆にはDVDシングルが行き届いただろうか。そこに書かれた2人のメッセージは真摯なものだ。この美しい作品を取り巻くそれぞれの思惑と立ち位置。一人々々がクリエイターとしての矜持を持ち合わせていて、それがぶつかつりあったんじゃないかとヒヤヒヤする。ちょっと想像力をはたらかせ過ぎかな。
ミュージックビデオを作るという作業は因果なものだ。映像作家というのは、映像が主役だと思っているから映像作家をやっている、とまで言うと言い過ぎだが、そりゃミュージシャンと比較すれば映像に比重を置いているのは明らかだ。そして、ミュージシャンという人種もまた、自らの手掛ける音楽こそが主役なんだと思っている。この具合。この噛み合わせ。ミュージックビデオの場合、曲が先にまずあるんだからこちらが主体に決まってるよねとなる。
映像作家はここで、どう踏みとどまるか。最初にこのオファーを受けるか否かの判断から始まり、どこで自身のイマジネーションを押し出すか、ミュージシャンのどこらへんの意志を尊重するか。色々と考える筈だ。特に桜流しの場合、映画という強力なバックグラウンドピクチャーが先に存在する。これとどう折り合いをつけるかがポイントなのだが、監督は、ツイッターによるとEVAを観ていないらしい。なるほど。その予備知識に立って、映像の内容を紐解いていこうかな。次回からすぐ、かどうかはわからないけれど。
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