無意識日記
宇多田光 word:i_
 



警察も検察も裁判官も弁護士もテレビ局も新聞社も出版社も皆々、単にインターネットが苦手なだけなんだよね。無能を悪意と取り違え、何も無い所に憎悪の応酬が生まれ出でる。会った事もない、伝聞と情報でしか構成されていない対象に対して罵詈雑言を投げつけるのは柳を幽霊だと怖がるのと同じかもしれない。

という事で、私にとって宇多田ヒカルは会った事もない、伝聞と情報でしか構成されていない対象なのだが果たして私はどうすればいいのやら。ほんの数m先に居た事も何度かはあるけれど別に会話を交わした訳じゃないしテレビでアップになったのを眺めているのと何ら変わらない。何やってんだろねこんな所で。

押し切ろうと思う。これだけ「宇多田ヒカル」という語句を繰り返している場所は他にない。柳を本当に幽霊に仕立てあげてみせようか。

まぁ柳は柳だな。いつまで経っても、どこまでいっても王様は裸のまま。新しい服は無い。無いものは、結局無い。


といういつもの前提を踏まえた上で歌詞の解釈という名の妄想構築作業に取り掛かろう。

『あなたが守った街のどこかで』。EVAで葛城ミサトが口にしたセリフがベースになっているとは思うが、光に実際にこの"あなた"が存在したケースは考えられないだろうか。例えば、被災地にボランティアに行った際知り合った誰かにとっての"あなた"であるとか、或いは学校で知り合った異国の人が徴兵され戦地に赴いたとか、そういった事もあるかもしれない。

一方で冒頭の『今年も早いねと残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』だけを切り取ってみれば、昔の恋人との思い出に浸っているだけとも取れる。『あなたなしで生きてる私を』というのも、曲調とこの後の歌詞の流れを踏まえると"あなた"の生死が気になるが、ここだけ取り出せば恋人と別れただけ、と云う事もできる。

何が言いたいかといえば、複数の異なる実体験を組み合わせる事で新しい架空の物語を醸成する事も出来るという話だ。つまり、幾ら歌詞の一言々々にリアリティと説得力があったとしても、全体を通して眺めた時にそのストーリーが実話に基づいているとは限らないという事だ。これは歌詞を創作する上で物凄く重要である。リアルだけを集めてファンタジーを創り上げる事も出来る。それは忘れてはいけない。

こんな事を書きたくなるのも、桜流しの描く物語が余りに普遍的だからだ。普遍性というのは非常に不可思議な概念で、それをベースにした現象や現実はありふれているのに、それそのものはなかなか姿を現さない。それについて語っている筈なのに、それはなかなか具体に直接表現されない。優れた作詞家は、その、誰もが知っているという感覚だけは持っているがそれがどういった何であるかはわからない何かにカタチを与える事が出来る。

桜流しは私にとってそういう曲だ。極論すれば、私は聴く前からこの曲の存在を知っていた。しかし、音と言葉というカタチを初めて与えたのは宇多田光だった。そして、私のみならずこの歌を"予め知っていた"と感じた人はどれ位居たであろうか。いつのまにか、桜流しのある世界に慣れてしまった。この歌のない世界なんてもう考えられない。もう戻れない。世界はこの曲の姿が現れた事でほんの少しばかり変質してしまった。しかし、この歌に宿す普遍性はずっと昔から変わらず"そこにあった"のだ。何が変わったのか。何が不変なのか。わからない。普遍性の罠はどこまでも恐ろしい。

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『全ての終わりに愛がある"なら"』の"なら"は印象的である。英語部分は『Everybody finds love in the end』と、言い切っている。「誰しも最後には愛をみつける」と。しかし、この箇所の英語訳は"If at the end of everything, there is love"になっている。少し、そして決定的に意味が違う。

もし、この部分を英語詞のfinds loveと同じニュアンスにしたかったのなら『全ての終わりに愛がある"から"』と"から"になるのが妥当だ。英訳は、したがって、IfではなくBecause等になるべきだ。どう意味が違うかといえば、"あるから"だとすれば、最後に愛がある事を確信した状態であって、つまり私は恐怖から目を逸らしませんという確固たる決意表明たりえる。ところが"あるなら"は、注釈つきの話、である。彼女は、最後に愛があるかどうか知らない、確信がもてない、もてていない。それでも最後に愛があると信じて恐怖と向き合うという。こちらの方がより切ない。どちらがヒカルの歌声に似合うかといえば後者だろう。

何故日本語のタイトル曲でここまで"Everybody finds love in the end"を押してくるか一聴した時は疑問だったが、この一言だけ異なる視点からのものだと考えると合点がいく。もしかしたらこれは"神の声"のようなものかもしれないし、或いは"あなた"が遺した遺言のようなものかもしれない。いずれにせよ、最後に『愛があるなら』とその言葉を信じて生きていくと歌う主人公とは別の誰かの言葉(或いはそれは未来の"私"かもしれないが)である事を強調する為にここの部分だけ英語にして切り離したと仮定するとやや合点がいく。ひとつの曲の中で複数の視点が混じり合うのはヒカルの曲ではよくあることだが(といっても例えばどの曲か、すぐには出てこない私であった…)、こうやって明白に色分けしてもらえればわかりやすい。そして、それを意識して桜流しを聴き直すとより切なさが増す。ヒカルの術中である。

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光のツイートに反応してみる。

とはいうものの、残念ながら私はPatsy Clineの事はよく知らないのでそういった話は出来ない。しかし、米国カントリー歌手の例は出そうと思っていたのでちょうどよかった。音楽の国内志向の話である。

野球選手の場合。日本のプロ野球に飽き足らなくなれば米国の大リーグを目指せばよい。野球をやってる国が少ないので選択肢は限られている。五輪はなくなってしまったから、あとはワールドベースボールクラシックくらいか。兎にも角にも、野球で「世界を目指す」となれば、必然的に"米国々内リーグ"であるメジャー・リーグを目指す事になる。ここらへんが、五輪や世界選手権の舞台が用意されている他の競技と異なる点だ。

商業音楽は、どちらかといえば野球に近い。というのも、"世界で売れる"為には必ず米国市場で成功しなければいけないからだ。フィンランドとドイツでだけ人気、とか日本とブラジルでは人気、とかはあるだろうし、"日本以外では大人気"はあるかもしれないが、"米国以外で話題沸騰"とかはなかなかない。世界的成功は、21世紀になった今でもなんだかんだでまずは米国で売れる事なのだ。

しかし、米国のビルボードチャートをみると二種類のヒット曲がある事に気付く。アメリカ以外のチャートでも売れている曲と、アメリカ以外では売れていない曲だ。前者が「インターナショナルな成功者」なら、後者はアメリカという固有の国(合衆国ですがね)でしかウケない「ドメスティックな成功者」である。その代表格がカントリー歌手の皆さんなのだ。

米国でのカントリーは日本でいえば演歌みたいなもので、いわば究極の内向き志向だ。しかしその顧客数が莫大な為、そこだけ相手してても十分億万長者になれる。"国内"でツアーやってりゃいいんだからある意味海外を転戦して世界的成功を納めた人たちよりラクである。

まぁそんな感じだから、幾ら昔成功した歌手だといっても日本語版Wikipediaに項目がなくったって不思議ではない。喩えるなら、フランスに北島三郎の項目を事細かに書き下せる人が居ると思うか?という話である。いや実際にはいらっしゃるかもしれないが、第一印象として「居なさそう…」という雰囲気だろう。米国のカントリー歌手の日本語項目がないのも、まさにそんな感じなのだ。

そもそも、日本のミュージシャンって大体内向き志向だ。サザンやミスチルの楽曲は国際的にも通用するかもしれないが、本人たちにその気がなさそうである。なので、やっぱり日本語で歌う。このグローバル時代、餃子も液晶テレビも海外で作って輸入するものになっているが、日本では"歌"が究極のガラパゴスとなっている。日本語で歌っている限り、世界的成功を目指してはないと断じられても断りきれないだろう。世界で売れるにはまず米国で売れねばならないし、米国で売れる為にはまず英語で歌われなければならない。そうやって逆算していけば、どうしたって日本語で歌を唄うというのは内向き志向と言われても仕方がない。

しかし、桜流しは日本語の歌である。これが内向きといえるのかどうか。HPに英訳詞を掲載した事、各国のiTunesStoreで購入できるようになっている点を考えると、国際的な展開も視野に入っているんじゃないかと勘ぐりたくなってはくる。しかし、海外でEVAQを上映する時に桜流しの英語バージョンが流れる、なんて事もないだろう。EVA自体が日本人向けに作られているのは疑いがないし、それ以上でしゃばる必要が主題歌にあるかと言われれば難しい。しかし、今回の体裁が、ヒカルにとっては"EVAだったから"というのは、あるかもしれない。まだまだわからないが、これをもって今のヒカルが内向きか外向きかを判断する事は出来なさそうだ、という事だけはいえるかもしれない。

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「愛してその人を得るのは最もよい。愛してその人を喪うのはその次によい。」

桜流しの『全ての終わりに愛があるなら』の一節を耳にした時、最初に思い出したのがこの言葉だった。元々は19世紀生まれのイギリスの小説家サッカレーの残した言葉なのだが、私(及び同世代の皆さん)にとってこれは漫画「ジョジョの奇妙な冒険第一部」における名言の一つである。この漫画は当時としては珍しく、主要な登場人物がころころ呆気なく死ぬ。しかしだからこそその短い登場期間に愛着がわいたものだが、彼らが逝く時の「看取り方」も作品の重要な場面のひとつだった。人は喪われるものだ。では如何にして喪う事があるか。それを考えさせられる種々の看取り方があった。

桜流しの一節が同じ意味を持つと主張したい訳ではない。ただ、「終わりに愛がある」とはどういう事なのかは、この曲を耳にした全ての人が一度は通過する疑問なのではないかと思うのだ。英語詞の部分は「Finds love in the end」であるから、穿った見方をすれば"愛は最後にならないと見つからない"とも取れる。或いは、最後まで共にあって初めて愛と呼べるものになる、とも。英訳では『If at the end of everything, there is love』となっている。『ある"なら"』の"If"の響きをどう受け取るか。英訳詞から見えてくる事もある。サッカレーのプロフィール読んでたら時間なくなっちゃったので続きはまた次回。

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桜流しを秋川雅史が歌ったら結構ハマるんじゃねーかな…

「うーん…」という声が聞こえてきそうだが、何が言いたいかといえばそれだけ桜流しのメロディーと歌詞が従来とは異質だという事だ。インストゥルメントは紛う事なくBe My Lastの作曲者によるものだが(とはいえ、ポールの関わり方がどれ位かはまだわからない)、宇多メロ…なんじゃその変換…歌メロに関してはなかなか似ているものが思い当たらない。強いて挙げれば誰かの願いが叶うころか。更に歌詞となるとここまで美意識が強いのは初めてなんじゃなかろうか。そこらへんが、クラシックの歌手に歌わせても面白いんじゃないかと私に思わせる要因だろう。

前も述べたように、この曲の歌詞には茶化すような所や遊び心を感じさせる箇所が、全く無い。BLUEのような曲ですら、『あんたに何がわかるんだい』なんかは少し狙っているというか、言ってる事はキツいのだけれどどことなくユーモラスに響いていた。ヒカルの知性は、歌詞の中にどこかデタッチメントを入れてくるのが特徴だ。敢えて距離をとったような言い方を入れてくる。しかし、シリアス度が増してくるとそういう捻りや衒いは少なくなってゆく。テイク5やPrisoner Of Loveなんかがそれに当たるか。Wild Lifeでこの2曲が続けて演奏されたのは偶然ではない。歌詞のヘヴィさのグラデーションを考慮した結果であろう。あと多分曲のキーもね。

桜流しは、その最たる例であろう。ヒカルがこの曲をナマで歌う時、少なくとも楽曲の最中は笑顔を一切見せないのではないか。それ位重い曲だ。これって歌い手にとっては結構辛い。というのも、歌詞を間違えた時に照れ笑いでごまかすという手が使えないからだ。間違えたらもう目も当てられない。歌詞が出てこなくなったら"感極まって"嗚咽のようなアドリブを入れて凌ぐのが賢明だろう。

しかし、ヒカルは歌詞を間違えない気がする。この詞は余程の思い入れがないと書けない。既にヒカルの心にずっしりと刻み込まれている筈である。ナマでのパフォーマンスはプレッシャーだが、間違えるより感情移入し過ぎて涙で声が出なくなる事態なら有り得る。それは避けたい。この曲のライブパフォーマンスの威力は絶大である。今からそう断言しておこう。

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ヒカルは、タイアップ相手の要素を歌詞に入れるのが巧い。あからさますぎず、かといってわかりにくくない、聴き手が「あ、これ…」と気がつく匙加減が絶妙なのだ。Can You Keep A Secret?などはその典型だろう。本来のラブソングの体裁を崩さず、それでいてドラマの"検事モノ"という枠組みにも対応していた。ドラマ本編では恋愛要素が希薄であったにも関わらずこういった芸当が出来るかどうかは自明ではない。尤も、歌の調子とドラマのノリが合っていたかといわれれば異論も出てきそうではあるけれど。

桜流しでも、Beautiful Worldに引き続きEVA本編の台詞からの引用がみられる訳だが、それそのものでもなく、また、台詞自体が作品を超えて有名だったりという立ち位置でもない辺りを突いているのが唸らされる。「逃げちゃダメだ」や「笑えばいいと思うよ」などはEVAを観たことがない人でも見掛けた事はあるかもしれないが、「あなたが守った街なのよ」は、名台詞ではあるもののこれが葛城ミサトの台詞だと知っている人は十中八九作品を観たことがある人だろう。逆に、観たことがあるならこれがミサトの台詞だとすぐ気付く。絶妙のチョイスだ。

しかも、これが震災後の風景とも重なるというのが際立つ。どれだけ多くの人々が、故郷や周りの人を守ろうと命を落としていった事か。この歌を実体験の一部として受け取った人も少なくないだろう。万単位の人が亡くなられているのだから。そして、この台詞がEVAの中ではとりわけポジティブなものである事も見逃せない事実だ。「よくやったな、シンジ。」に次いで、シンジにとって意味のある一言だったのではなかったか。これだけ絶望と悲嘆に包まれた曲調の中だからこそ、この前向きな一言は響く。だからこそ喪われた命の悲劇性は増すし、私たちの続きの足音は力強く響く。何から何まで考え尽くされた一節といえるだろう。こういうチョイスが可能なのも、過去に光がEVAのTVシリーズを何度も見返している事、それに加え、この物語で節目や要点となるエピソードを的確に把握している事、更に、旧劇版と新劇版の客層の違いなども頭に入っていた事なども重要だっただろう。人間活動中だというのに、ここらへんのセンスは衰えるばかりかますます磨きがか
かっている。ブランクなどどこ吹く風の作詞力である。

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一方、桜流しには全く音韻がないなんて訳でもない。

『もう二度と会えないなんて信じられない
 まだ何も伝えてない
 まだ何も伝えてない


『ない』が4度繰り返されている。ただこれは『韻を踏む』とは言えないかもしれない。普通音韻というのは単語のうちの幾つかの音素が共通であるとか子音は同一で母音は異なるとか母音は同一で子音が異なるとか、そういった「全て同じではないが幾らか似ている」節同士の関係を指すものだ。これは、本当に『ない』をただ繰り返しているだけである。更に、1度目の『まだ何も伝えてない』と2度目の『まだ何も伝えてない』はメロディーが違う。

符割りを区切って書くと上記の3行はこういう具合だ。

『―もうにど―と/あ――えな―い―
 なん―てしんじ/ら――れな―い―
 まだな―にも―つ/たえてな―い―』

何だか『もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対』By槇原敬之をついつい思い出してしまうが、どちらにも共通するのは否定と関係ない『なんて』が挟まれている事だ。これを抜かして普通に「もう二度と会えないとは信じられない」「もう恋はしないとは言わないよ絶対」と言ってしまえばさして難しい文章ではない。ただ「なんて」に惑わされているだけである。

「なんて」は「などと」の転であり、否定の「ない」とは直接関係ないが、婉曲と強調と疑問を同時に兼ね備えるという特異な性質をもつ副助詞だ。したがって、周りの「ない」の否定を強めたり、あわよくばその疑問形に近い使われ方で、反語表現に近い強調文を構成したりする。こんな単語を放り込んでくるなんて、ヒカルはやっぱり巧みだなぁ。


…といういつもの軽い調子で締めくくるとどうもしっくり来ないのは、それだけこの歌の歌詞がシリアスだからだ。余り技巧な話にせず、もっと感性に依った話にもっていこうかな。

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桜流しには音韻技術の駆使が、常なヒカルと較べて殆ど出てこない。数百字の音韻構造に数万字を費やす(それでもまだ足りない)のがヒカルの曲なのだが、この曲に関してはそれが当てはまらないのである。

これは、曲調による。リズミカルで高揚感がある楽曲であるなら、押韻は効果的である。韻が生むのはリズムであるから。桜流しはリズムで押す側面が殆どみられない。ベースもドラムも、リズムセクションと呼ばれる楽器陣は重厚さの演出に回っている。

韻を踏んでいると、どうしても楽しくなってしまう。詞の内容に関わらず。いや、そもそも歌詞の音韻に注目させる事自体、詞の内容から離す行為であるから、詞の意味内容に耳を傾けて貰おうというのであれば、音韻は極力外すか、あっても控えめでなくてはならない。

桜流しに音韻構造が殆どみられないのは、それだけ歌詞の内容が大切だからである。意味が伝わればいい。早い段階でHPに英語訳を掲載した理由と同じである。

同じように"リズムを抜いた"楽曲として思い出されるのがFINAL DISTANCEだ。ストリングスとピアノとコーラスワークの三位一体、と毎度言っているが、元曲のDISTANCEが弾けるようにPopで切ない楽曲であるのに対し、非常に厳かで充足した楽曲になっているが、基本的に歌詞はDISTANCEと同じものなので、その名残が幾らか残っていたが、桜流しにはそういった"枷"はないので、かなり大胆である。

前も触れたように、『どんなに怖くたって目を逸らさないよ』の一節は完全に音韻どころかメロディーからも外れている。しかし、こう言いたかった。逆説的だが、メロディーからもリズムからも外れる事で歌詞のメッセージ性は増す。そこの要点がメロディーでもリズムでもない事が示唆されるからだ。

特に、楽曲の前半部分は歌詞の語る物語に注視するべく、メロディーが一定しない。ここが後半と対照的で、且つこの曲がとっつきにくい理由でもある。Popソングのつもりで軽く聞き流している人にとってはこの部分は何か遠くの方でもごもご言っていて地味、という印象を与えるだけだろう。しかし、言葉に耳を傾ける人にはありありと情景が浮かんでくる。ここで差が出る。

今回映像作品に注力したのも、そうやって聞き流してもらうより、楽曲と面と向かって対峙してくれた方が真意が伝わるからだ。視界を占有する事で声も届きやすくなる。どこまでもしっかりプロデュースされた作品、及び作品形態である。

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EVA:Qで一番鮮烈だった一言はこれだ。「何もしないで」。あれだけEVAに乗れ乗れ言ってた人達が見事に掌を返した様は観客がシンジ君に同情するに余りある程効果的だった。極論すればこれが:Qのテーマだったと言っていいのかもしれない。

ただ、私が劇場でこの台詞を初めて耳にした時に頭に浮かんだのは、やはりというべきか呆れるべきというべきか、ヒカルの事だった。ヒカルが人間活動に入っている時期…いや、光が人間活動をしている時期というのはヒカルは開店休業中であり、ヒカルとしてはいわば「何もしていない」状態である訳だ。そういう人間がこのEVA:Qの主題歌を歌うだなんて、これ以上相応しい人選はないな…それが最初の感想だった。

思えばヒカルが、特にシンジに同調するのは、何度も述べてきているようにセカイ系の主役として自分の小さな振る舞いが世の中に大きな影響を与えられる立場に、望むと望まざるとに関わらず立たされてしまった苦悩が一致するからだ。後に二人ともこの「運命と和解」して"EVAに乗る"事を受け入れていくのだが、:Qはこの運命との和解を真っ向から否定する。せっかくやる気出してるのに、という気分。

勿論決定的な違いが明確にあって、それは、シンジが乗れ乗れ乗るなと周りから言われ続けているのに対して、ヒカルは自らの意志で人間活動に入った事だ。この違いこそ本質的だなぁと思う一方で、もしかしたら、ヒカルは周りからそれを言われ始める前に誰よりも早く「ヒカルとしては何もしない時間」をとるべきだと思ったのかもしれない。

ここら辺が、難しい。宇多田光という人の価値判断には自己と他者の境界線がない。自分が聴きたい音楽を作るのと、人が聴きたがる音楽を作るのに差がないのである。前者を作れば自らが誇らしいし、後者を作れば皆が喜んでいるのを知りよしとする。そういう人間にとって、1人の人間として人間活動に入るという"決断"は、自分が疲れ切っていたから、というだけでなく、世界中の"宇多田ヒカルという概念"にお休みを与える必要性や義務感をどこかで感じ取ったからかもしれない。いわば、運命から「何もしないで」と宣告されたようなものなのかもしれない。逆に、そういうものである方が"決断"がし易いという側面もあろうか…EVA:Qを見ながらそんな事を考えていたら、シンジレイアスカの3人が歩き出す所でアニメが終わり桜流しが流れ出した。私たちの続きの足跡。そうか、やっぱりこの曲は「何もしない」時期だからこそ作れた曲なのだ、人間活動の賜物なのだと思うに至った。

人間活動を通して得た経験が楽曲と歌詞により深みを与え…という定型的な解説をする事も可能だが、よりシンプルに、「何もしていない人("宇多田ヒカル")が書いた曲」というのがEVA:Qに必要な楽曲だった、とそう思えばあらゆる運命の輪がカッチリと嵌る気がする。この時期に休み且つこの時期に作る歌。長い音楽家生活の中でも2度とないかもしれないタイミングで唯一無二の楽曲桜流しを作り上げたヒカル。再三再四言うようだが、脚本を読まず五里霧中にあってもEVAの本質を見抜いていただけではなく、作品の推移と人生がシンクロしてしまうなんて尋常じゃない。この歌は生まれるべくして生まれたんだ…それが私が最初にEVA:Qを観た時の感想だった。とすれば次作EVA:||の主題歌はどうなるのだろう?…そう思いながら観た次回予告は「安心しろ」と言ってくれているように思えた次もヒカルは絶対ハズさないだろう。今度こそそれが宇多田ヒカルの復帰の瞬間かもしれない。さぁて、どうなりますことやら、ら?

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長らくAppleの提示する「スマート・ライフ」(今私が勝手に名付けた)の評判がよかったが、私自身はiPhoneに代表される"All in One"の発想は少々不便ではないかと感じるようになってきた。技術が進歩しまくった上での贅沢なのだが、例えばメールを読みながら音楽ファイルを操作するのならケータイとプレイヤーがセパレイトになっている方が都合がよい。特に通信環境に作用されるサービスに接続する時には「ただ待っている時間」が退屈なので他のガジェットで文章を読むなり音楽を聴くなりした方がいい。

元々私自身は小さい頃からAll in One信奉者なのだ。テレビCDラジカセとか全部入りじゃないか!とか時計付きラジオポールペンってそれ全部一緒にする必要あるんかい!みたいなものまでときめいていた。アホか。今でも萌えるんだけど、そういう感性は変わっていないのにガジェットにはセパレイトを求め始めたというのは余程のことではないかと。

何故こんな事になったかというと、ガジェットが小さくなりすぎたからだ。私が愛用している一つ前の世代のipod nanoは、5つ集めてもipod classicよりまだ小さい。勿論それを5つ集めてもそんなに便利じゃないのだが、こうやって物理的にセパレイトされていた方が全体的にストレスが少なくなる。何より、機能が特化されシンプルになればなるほど「重くなる」「落ちる」といった現象が少なくなる。これは結構大きい。

極端な話、例えばライブストリーミングを楽しむ時同じ内容の放送を同時に二画面で流したりしてもよい。何を無駄な事を、という感じだが、例えばUSTのチャットとTwitterのハッシュタグを別々に表示させてそれぞれの反応の違いをみたりもできる。勿論画面上で切り替えればいい話なのだが、2つとも手に持てる大きさなら目を切り替える方が圧倒的に早い。また、携帯の二台持ちの進化形ともいえるが、Twitterなんかで複数アカウントを持っているならシンプルにガジェット二台がいちばん便利だ。

繰り返すが、All in Oneを私が好んでいるのは今も同じだ。しかし、それすら凌ぐ程にガジェットの小型化と高速化が進み、二台以上を駆使するメリットがクローズアップされてきた、とでもいえばいいか。Appleも、そろそろ発想を変えてくるかもしれない。

そういう技術の進歩に対して宇多田ヒカルは…という話をするつもりだったんだけど毎度のように時間が来たのでこの辺で。

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新しいガジェットに興味があるのは、それが現れて定着した頃にまたヒカルが大ヒット…いや、特大ヒット曲を作るのではないかと期待するからだ。

ヒカルのデビューした1998年という年はCDという媒体が最も売れた年だった。そのタイミングで最大のCD売上を上げたのがヒカルだ。DVDもちょうどVHSから移行する時期にボヘサマやトラベなどを大ヒットさせた。

Be My Lastが発売された2005年は日本でちょうどiTunes Music Storeが始まった年。未だにiTSは覇権を握れていない。それを考えると2005年はCD売上が激減し、さぁどうするかという過渡期だった。そこにもってきたのがBe My LastやPassionといった実験的な楽曲だった。音楽メディアの移行過渡期に実験的な楽曲。この組み合わせである。

そして翌2006年にはKeep Tryin'がauの新サービスLismoの看板楽曲として220万DLを記録する。時代は「ケータイで音楽を切り取る」段階に入った。宇多田はケータイに狙いを定めたと言っていいかもしれない。そこからちょうど一年後、着うたの隆盛に合わせるかのようにわかりやすい王道楽曲Flavor Of Life -Ballad Version-を投入、First Loveアルバム以来の大ヒットを記録する。

つまり、何が言いたいかといえば、ヒカルはただそれぞれの媒体について特大ヒットを出しているだけではなく、偶然にも媒体の使用が定着した頃を見計らったかのようにわかりやすい楽曲をリリースしている、という事だ。

その論でいえば、携帯電話の主流がスマートフォンに移りつつあり、電子書籍の新しいガジェットがリリースされ始めているような今の時期は移行期・過渡期であり、皆が音楽の聴き方に戸惑っている時期である。こういう時期だからこそ、桜流しのようなPopの欠片もないヘヴィで実験的な曲がリリースされたのだ、という風にもいえる。逆にいえば攻めるなら今しかない。

となれば、このあと何やかんやがあってまた新しい音楽との接し方が定着した頃にヒカルはわかりやすい王道の楽曲を発表するんじゃないかという期待が浮かび上がってくるのだ。この一億人の済む国で特大ヒットを飛ばすには何よりもまずリスナーが「音楽を購入する」という行為に対して抵抗を持っていてはいけない。気軽に買える、いや、気がついたら買っていた位でなくてはいけない。そういえばこの曲買ったんだっけと後から振り返ってもらいましょうぞ。

過渡期・移行期には音楽的な側面が実験的になるだけでなく、その売り方も模索状態に入る。Be My LastはDVDつきシングルと、その半額で買える紙ジャケ仕様の1曲入りシングルの同時発売だった。売る方も工夫が要り、買う方にも迷いの出る時期だったともいえる。あらゆる状況がシンクロしているのだ。

媒体が進化するにつれ、皆が安心して何も考えず目の前のガジェットを利用する、という時期は短くなっていくかもしれない。であれば、次のヒカルの特大ヒットシングルはその極短い時期にリリースされねばならない。モタモタしているとすぐに次世代メディアが進化してきてまた不安定期・端境期・移行期・過渡期になるだろう。そしてその割合は物事が前に進めば進めるほど増える。ヒカルの楽曲もまた、実験的なものがリリースされる割合が増えるかもしれない。とすると桜流しのような壮絶な楽曲が次から次へと…それはそれで嬉しすぎるぜ。特大ヒット曲を出してくれても鼻が高いし、実験曲を出してくれればこちらの耳が喜ぶ。どちらに転んでも充実している。まったく、素晴らしいアーティストのファンになったものだ。

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PC配信がシェアを獲得できないのは、単純にサービスとして無料のものに敵わないからだ。PC配信で購入するという事は、その人はPCを持って使っている訳で。当たり前だけど。さて、ではiTunesをインストールしてアカウントを作成しクレジット番号かiTunesカード番号かを入力し、そこから欲しい楽曲を探すのと、ブラウザーを立ち上げて検索窓にアーティスト名を入力し出てきたYoutubeへのリンクをクリックするのと、どちらがラクか、どちらが容易か。火を見るより明らかだろう。しかも、それで前者が有料で後者が無料では勝負にならない。

しかも、これは技術的な問題だが、例えばiTunes StoreとGoogle/Youtubeを比較すると、検索の精度がまるで違う。何よりiTunesはWindowsで動かすとひたすら遅い。Macなら快適なんだが。何より、ブラウザーとしての使い勝手の悪さはIEを上回って圧倒的だ。戻るボタンを押して元の画面に戻れないとか何。詐欺。いやはや、この種のストレスの差は大きい。

しかも、ダウンロードしたファイルも、昔違法で流通していた無料ファイルに較べて有料のものは貧弱だ。MP3のビットレートは320kbpsから選べたし、アートワークの画像ファイルは高精細で使い勝手がよいし、作詞作曲や発売日などのタグ情報は非常に多彩で正確だった。iTunes Storeで購入してもクレジットは貧弱だし歌詞はなかなかついてこない。今は改善されたが、長らく使用機器の制限も煩わしかった。これでは有料が無料に敵う訳がない。無料の方がサービスが行き届いているのだから。

これを打破するには、やはりガジェットを買ってすぐに使えるものでなければならない。電源を入れてアーティスト名を入力(音声入力も対応)すれば、すぐに購入画面に飛んでワンクリックで買えてすぐさまそこで聴けるようにならないと。

そういった観点から、Amazon Kindleが羨ましい。特に3G無料は凄い。音楽も真似できないかな。そういうガジェットを作れば、今からでも、少なくとも日本では、SONYとかが覇権を取り戻すのが可能なんじゃないかな。フィーチャーフォンでは代行決済を使ってそういうサービスがある程度実現してたんだし。如何なものか。

あら、桜流しの話まで行
かなかった。次回へ続く。

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love  


桜流しの"J-Popで無さ加減"は、甚だしい。そもそも全然Popじゃない。ポピュラーでもなければ軽やかでもない。重く沈み込み、救いもない。愛があるだけではない。愛は救いにはならない…って断言する事でもないか。

SC2のバランスを思い出せば、グッハピとキャンクリのPopさと対照的に、SMLは徹底してハードであり、嵐の女神はとことんパーソナルだった。どちらにでも行ける中で、今回はこれまでで最もヘヴィで最もダーク、且つ最も美しい楽曲をもってきた。それがEVAQに合うからでもあるだろうし、201~12年の気分がそんな感じだったというのもあるだろう。ただ、Be My Lastと異なるのは、荒々しい面はあっても最後まで丁寧さを失わない点だろう。

Be My Lastは、放り出したとまでは言わないけれど、聴き手に対して懇切丁寧に説明をするような感じではなかった。感覚から感覚に訴える感じで、何よりサビの歌詞が鬼のようにシンプルだ。もうちょっと何か説明してやれよと思いつつも、『Be My Last...』の『...』の部分は最後までわからないままだ。『どうか君が私の最後の…』…何なのだろう。この歌は答を与えない。その座りの悪さ、『かあさんどうして育てたものまで自分で壊さなきゃならない日が来るの?』という問いをそのまま吐き出して、それっきりな所がBe My Lastの個性であり、ポピュラー歌手としての"宇多田ヒカルらしくなさ"でもあった。

荒々しさは、桜流しの方が勝る位だ。まるで花嵐のような、そんか音の渦、音の密度である。しかし、この歌はきっちりと『答』を与える。愛である。

Everybody finds love in the end、全ての終わりに愛がある、そう言い切る。ここが大きく違うのだ。座りのよさ。Be My Lastとの最大の違い、そして「新劇場版ヱヴァンゲリヲン:Q」との最大の違いでもある。QはQuickeningの他に、当然Questionの含意もあるだろう。観客全員の頭に浮かぶクエスチョン・マークの数々。EVAQの存在意義、意図は須くそこに収束するのであるからそれでいいんだが、桜流しは楽曲として完結した作品であり、またBeautiful Worldと運命を共にしている為言い切れるのだ。It's Only Love, everybody finds Loveと。それがあるから、桜流しがEVAQのエンディングで流れる時、まるで映画全体を包み込むような力が溢れたのである。それはまるで、誰かの願いが叶うころがCasshern全体を手懐けたのにも似る。その包容力は、答を先送りしない強さからきている。『怖くたって目を閉じない』のだ。ある意味、桜流しは新劇場版の行く末が安泰である事も示唆してくれている訳だ。必ず最後に愛が
あるから、と。Qの脚本は読んでないけど:||の脚本は読んだ、とかないだろうな。そんな事を疑いたくなる位、桜流しは強い。そして、美しい。ここが7年前に較べていちばん光が成長した所なのかもしれない。

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日本語の歌の新しいジャンルといっても、ヒカルの場合毎曲新ジャンルを作っているようなもので、いわば別格扱いだ。桜流しはチャート上"異様"ともいえる存在感を放っているが、やはり未だに彼女は他のミュージシャンたちにとって"雲の上"の存在なのだろうか。

桜流しは日本語を大切にした歌である。一節だけ"Everybody finds love in the end."だけは英語だが、これは"Be My Last"だけ英語だったBe My Lastのようでもあるし、"Everybody feels the same"と繰り返した虹色バスのようでもある。歌詞の一部を英語にするのは繰り返し、リフレインに対応する為だ。日本語より英語の方がある一定のフレーズをリフレインし易い。

しかし、桜流しでは日本語でも繰り返しが現れる。『まだ何も伝えてない』の一節である。なくはないが、なかなかに珍しい。リフレインには様々な理由が考えられるが、ここの場所の場合は「大事な事だから二度言いました」の哲学だろう。その事実を口にする事で自分が気付き直す瞬間を捉えると、こうなる。「まだ何も云ってなかったな…そうだよ、俺何も云ってなかったんだよ」という具合。

もう一つ、冒頭の『開いたばかりの花が散るのを』が最後にもう一度出てくるが、これはリフレイン(refrain:繰り返し)というよりリプリーズ(reprise:反復)と言った方がいいかもしれない。最初と最後で、この風景を眺めていた主体が変わっている事を厳かに、且つ劇的に伝える事に成功している。

普通のリフレインは繰り返す事でフレーズを"印象づける"効果を目論むが、ヒカルが日本語で繰り返しを使用する場合は斯様に種々の背景がある。日本語の特質を理解した上での所行であるから、無理がない。こういう所も詞全体の美しさへの貢献の一部だといえるだろう。

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2年前にGoodbye Happinessを「最後のJ-Popソング」と呼んだのは、こちらの願望も含んでの事だった。というのは、この"J-Pop"という呼称が長続きし過ぎていると感じたからだ。

嘗ては流行歌と呼ばれる日本の歌は、時代々々で様々な呼び方が為されていた。歌謡曲と呼ばれていた事もあったし、演歌と呼ばれていた事もあった。グループサウンズだってフォークだってニューミュージックだってその時代々々の新しい音楽につけられた名であって("ニューミュージック"なんてまさにそのまんま)、ジャンルとして確立されるのはその後である。そのジャンル名を背負って立つ歌手たちがそのまま元気に活動すればジャンルは定着する。演歌だって昔は流行歌だった。そして、北島三郎とかが未だに現役で頑張っているから演歌というジャンルは地道にその地位を確保している。グループサウンズの場合、主要なグループが短期間で全て空中分解してしまったからジャンルとして生き残れなかった。ニューミュージックの旗手たちは、今でも元気に活動している。

ところが"J-Pop"の場合、それは本当に"邦楽"全体の呼び名になった。それだけ多様なミュージシャンが出てきて一括りにできなくなった、と言ってもいいのだが、J-Popという名称の定着した90年代初頭以降、この"ジャンル"はその時々でビッグセールスアーティストを世に送り出し、その看板が入れ替わり立ち代わりする事で隆盛を誇った。松任谷由実の独占から解き放たれたチャートには、ドリカム、ミスチル、GLAY、B'z、trf、globe、安室奈美恵、MISIA、浜崎あゆみときて宇多田ヒカルがラストを飾った。いやもっと一杯居たけどね。この人たち、見事に音楽性がバラバラである。この節操のなさがパワーだといってもいいのだが、こうしてみると"ムーブメント"といえるのは当初のバンドブームとビジュアル系の隆盛くらいで、殆どがぽっと出てきた天才の才能頼りだったように思う。21世紀に入ってからの若者の音楽に元気がなくなったのは、まぁ最後に出てきたヤツの才能が極端過ぎ
たともいえるのだけど。

そこからの10年は、早い話が20世紀デビュー組が頑張り続けるという構図でしかなかった。チャートを席巻したのはお馴染みの連中と、嵐やAKB48といったアイドル勢だった。いや勿論若い人たちも頑張っていたのだが、ミスチルをはじめとする90年代組の目の上のタンコブぶりは際立っていた。

でも、もうそろそろいいんじゃないか。そろそろ"J-Pop"という呼称を過去に葬り去れる新しい動きが出てきていいんじゃないか。邦楽に何か新しい名前をつけてあげたい。


ま、宇多田ヒカルはもうベテランだし大御所だしそういう動きを作り出す方というよりは、受け止めて跳ね返す方になるとは思うが、一方でヒット曲を出し続ける事を期待されている向きとしては、新しい波が来たらそれなりに対応しなければいけないだろう。

一方で、もっと普遍的な問いもある。日本語で歌を歌う意義そのものである。ここ数年の光は"日本寄り"である事を隠さなくなった。ロンドンに居住する事でアメリカという国はどこか相対化されたきらいがあるが、日本という国は相変わらず特別なままである。この国の言葉で歌を唄う事自体には、光は疑念を持ち合わせていないだろう。

しかし、時代が動き、世代が移り変わっていく中で日本語自体も変化するし日本語を取り巻く環境も変化していく。今一度この機会に"日本語の歌"とは何なのか掘り下げていきたい。"桜流し"は、その先鞭なのだと思う。"シングル曲"で日本語タイトルを持ってくるからには、そこにある日本語の重さみたいなもんが違う筈である。この強力なサウンドトラックを持つ楽曲に於いて日本語がどう機能しているか。それが今後にどう繋がっていくか。ゆっくりと見ていきたいと思う。

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