無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そういや12月だというのにキャンクリの話を全然していない。まぁアンチクリスマスソングだから寧ろクリスマス以外の時期に聴くのが正しいんだが。"Can't wait 'til Christmas"というのは、通常用いられる時の意味は「クリスマスが待ちきれない」→「クリスマスが待ち遠しい」→「クリスマスに早くなって欲しい」→「クリスマスに対する期待感で胸が一杯である」という事なんだがヒカルのキャンクリの場合はこう解釈する訳にはいくまい。敢えて極端に書けば、「クリスマスまで待つだなんて無意味な事はやめろ。あんなの特別な日でもなんでもないのにそんな先まで待っていられるか。今すぐだ今すぐ。」みたいな感じである。こう書けば、『いつか結ばれるより今夜一時間だけ会いたい』と歌った人と同一人物である事を思い出せるだろう。ビマラとキャンクリでは曲調も親切さもまるで真逆なんだがやっぱり宇多田節なのだ。

同じようにグッハピも誤解されている。あの歌はどうしても『何も知らずにはしゃいでたあの頃へ戻りたいね』のせいで過去を美しく思い出すノスタルジー満載の歌だと捉えられているが直後の『そしてもう一度Kiss Me』からわかるように、「もしもう一度人生やり直せるとしてもこの"今"に戻ってきたい。それ位に私は"今"が愛しい」という歌なのだ。もう何度も書いてきたからイヤーオクトパスだが。

誤解、と書いてしまったが、それもちょっと違う。ヒカルは、別に聴き手を出し抜きたいのではない。そうではなくて、歌詞自体がダブルミーニングになっていると解釈するのがより適切だろう。普通のダブルミーニングというのは大抵ただの駄洒落なのだがヒカルのダブルミーニングは最強だ。何故なら、本来全く相容れない反対意見を持つ者どちらからも共感が得られる、という意味でのダブルミーニングだからだ。こんなもん他に例がない。クリスマスに興味のない人も期待感で胸を膨らます人も、どちらもキャンクリを聴いて「私の気持ちを代弁してくれている」と感じるのだ。美しかった過去を懐かしむ人と今現在を愛でる両方の人がグッハピの同じ一節を口遊んで笑顔になる。なんじゃこれ。

ツイートにも見事なのがあった。『原発には反対だけど、運動はしない。』このツイート、自称反原発派の人達からも彼らに原発推進派と呼ばれている人からも支持されたのだ。ヒカル凄いよね。全く異なる意見の人同士でも同じ歌を愛する事が出来る。それを具現化する能力があるから、彼女は万民に愛されるのだ。確かにやり方は技巧的にきこえるかもしれないが…それは俺の説明が下手なだけ。実際はあなたが耳にしているように、素敵な歌がそこにあるだけだ。野暮ですいません。

では、桜流しの歌詞にそういったダブルミーニング的な側面はあるのだろうか…という話からまた次回。

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旧劇版EVAは自己批評性が際立っていた。「アニメなんか描いていて/観ていていいのか?」という葛藤が行き過ぎて、最終的には観客席をスクリーンに映し出すまでになっていった。そういった自己批評性が「アニメとは何か」という命題に向き合わせる事になり、人はアニメの可能性の縁(ふち)を探るようになり、結果としてアニメーションの可能性をそこから押し広げていく事になる。これは漫画も同じで、手塚治虫は常に「漫画」という表現形態の限界を探っていた。「先頭を走る」には、自己嫌悪や過剰謙遜と紙一重の自己批評性が必要になる時もある。小津安二郎ですら「所詮映画」と言っていたのだから。

邦楽を聴いていて思うのは、有名どころに「俺、歌なんか唄ってていいんだろうか?」と悩む人を余り見掛けないという事だ。売れない人がそう悩むのは当たり前体操として、いちばん売れてる人が卑屈になってるケースがなかなかない。これが、邦楽があんまり発展しない遠因だと勘ぐるのは穿ち過ぎか。そうやって日本語の歌の可能性の限界と向き合い、結果歌の可能性を押し広げる貢献を果たす人がなかなか現れないのではないか。

ヒカルはその点でも突出している。小さい頃から「両親のようにはなるものか」と安定した職業を所望し、ミュージシャンになった後もいつでも辞める事や休む事を考え続けていた。それが結果として誰にも成し遂げ得なかった記録を打ち立てて結局12年間実働した。自己批評性という点に関しては他のジャンルと比較しても遜色ない。ただ、あんまり「所詮は歌」という風に言わないのは…まぁ、立場上言い難いのかな。本音としてはそう思ってないだろうし。

桜流しは、また「日本語の歌」の可能性を押し広げた。大事なのは、30万ダウンロードというヒットの規模だ。今までにない音楽性を指向するだけなら、私たちの知らない所で素晴らしい音楽を創っている人たちが居るかもしれない。しかし、マスメディア全開でこういった楽曲が敷延していくのは革新的だ。商業音楽でどこまでいけるか。Passionに"Single Version"があったのを思い出す。ヒカルは常に商業邦楽の限界を探り続けている。今回も"アウト"だったか否か。Passionの"その後の評価"を想起すれば、自ずと答は見えてくるんじゃないかな。

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