無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Be My Lastと桜流しの最大の違いは、壊す主体が真逆な事だ。BMLはヒカルの云う通り言いたい事は冒頭に集約されている。『かあさんどうして育てたものまで自分で壊さなきゃならない日が来るの』。桜流しは『見ていた木立の遣る瀬無き哉』の一節にある通り、何か圧倒的なものの前で立ち尽くすような歌だ。自分より遥かに大きなものによる破壊を前にして為す術の無い無力感。そこまでいけばもう愛しか残らない。残せない。

しかし、ここにEVAという作品の偉大さがある。この2つの対比、壊す主体が自己か他者かという違いを、"セカイ系"の一言で結び付けてみせる。確かにEVAだの鍵だの槍だのインパクトだの言っているが、そういった"運命を左右する得体の知れない何か"という文学の大命題に対して、何らかの形象を与えたものだと考えればスッキリする。種々の超能力を擬人化して造形に昇華させた「ジョジョの奇妙な冒険」の"スタンド"のアイデアに、近い。文学的で曖昧模糊とした主体を物質化し表現する事で周りに描く人間模様を凡庸から普遍へと昇華させる。これがエヴァンゲリオンというギミックの正体だ。押井守氏の評はこの点を完全に見落としている。彼は過去の文学に対する知識はあっても感覚と理解が欠落している。それをカバーする為に衒学趣味に走らざるを得ないのが彼の作品の問題点であり、更にだからこそ映像表現に特化する必要性を招き結果イノセンスのような傑作を誕生させてきたのだが…まぁその話はいいか。

EVAの衒学性は、こちらこそが文字通りのギミック、目眩ましなのである。何か謎めいた事を言って視聴者を攪乱し、その純粋過ぎる文学性を死守しているのだ。中身がないから周りを固めるのとは違う。攻める殻ばかり強くしても物語としては仕方がない。映像が素晴らしいのでそれでいいんだけど。それはこの間の神山監督の作品にも言える事で…ってしつこいなあんた。

ただ、とはいえ、やはり総監督と三島では見ている方向性はかなり違う。輪廻転生を主題とする人間は自己という近代的な概念を…

いかんいかん、今は何を書いても理屈っぽいな。今日はやめにしておこう。


全然関係ない話。Beautiful Worldの歌詞、表記は『Beautiful Boy』になっている箇所、実際に歌を聞いてみると『Beautiful Boys』と複数形になっているように聞こえる、という話は5年前にしたと思う。Qを通過して改めてBWを聴くとやっぱりこの歌はシンジとカヲル、2人の少年の歌だよなぁ、どちらからの視点と解釈しても、両者が混じり合っていると考えてもおもしろいねぇ、なんて風な感想を抱く。『自分の美しさまだ知らないの』はカヲル視点だよねぇ、とか『どんなことでもやってみて損をしたって』というのは何だかんだでQでも積極的なシンジ君の事だよなぁ、勿論2人は夜空を眺めながら『君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ』と…。

まぁつまり何が言いたいかというと、一連のシンジカヲルシークェンスは、Beautiful Worldへのリスペクト、オマージュがちょっとだけ含まれているんじゃないかなぁと。もう5年も前の歌なんだし、歌詞の内容を映画に反映させていたってちっともおかしくなんかない。いつのまにか、Beautiful Worldの方からもEVAの世界に影響を与えているとしたら感慨深いものである。

となれば、:||ではこの記号通りに"Beautiful Worldのリフレイン"があるかもしれない。桜流しはレフトから来たワンポイントリリーフみたいな感じだろうか。さて、どうなりますことやら。相変わらず気が早いな。

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過去の作品で桜流しにいちばん近いのはBe My Lastだろう。もっといえば、映画「春の雪」によりフィットするのは桜流しの方であるとすら言える。タイトルの雰囲気や、ピアノの旋律を雪の舞い落ちる様子に喩えてもサマになる事や、大正時代の空気にそぐう重々しいストリングスや、和洋折衷の古くで新しい感覚など、まさにそのままである。

母と息子の物語を取り上げている事や、自立しきれない主人公の優男とそれを取り巻く女性たち、という構図は、春の雪にもEVAにも共通のものだ。更にその中で、Qの特徴は、自分の許容量を超える責務を与えられながら運命を受け入れて力を奮う、つまり持て余す力を自己化していく物語であった序破と対照的に、ひたすら主人公の無力感に焦点を当てている事だ。しかも、勇んで積極的に行動しようとすると悉く裏目に出る。行き着く果てはどん底の無力感である。春の雪では、Be My Lastで『何も掴めない手』と歌われているように、主人公は1人ではひたすら何もできない。序破のままでは春の雪の世界観をEVAと共鳴させるには材料が足りない感じがするが、Qに至る事でそれが可能になったようにも思える。少なくとも、音楽の作風が近いものになったという事は、ヒカルとしては、似ているとまではいかないまでも何か共通なものがあるとはいえるかもしれない。

前々から言われているように、エヴァンゲリオンとは純文学を現代に生きさせる為のギミックである。三島由紀夫原作の映画と共通項が出てきても不思議ではない。いや、三島を純文学と呼ぶかどうかは知らないが。桜流しの作風がそこら辺を突いてきたのは、EVAのそういったコアの部分、彼女曰わく"ダシ"の部分を、自らもしっかりと持っていて、表現できて、それを的確に選択したからだろう。試しに春の雪を見終わった後に桜流しを流してみるのもいいかもしれない。時間かかるな~。

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