無意識日記
宇多田光 word:i_
 

love  


桜流しの"J-Popで無さ加減"は、甚だしい。そもそも全然Popじゃない。ポピュラーでもなければ軽やかでもない。重く沈み込み、救いもない。愛があるだけではない。愛は救いにはならない…って断言する事でもないか。

SC2のバランスを思い出せば、グッハピとキャンクリのPopさと対照的に、SMLは徹底してハードであり、嵐の女神はとことんパーソナルだった。どちらにでも行ける中で、今回はこれまでで最もヘヴィで最もダーク、且つ最も美しい楽曲をもってきた。それがEVAQに合うからでもあるだろうし、201~12年の気分がそんな感じだったというのもあるだろう。ただ、Be My Lastと異なるのは、荒々しい面はあっても最後まで丁寧さを失わない点だろう。

Be My Lastは、放り出したとまでは言わないけれど、聴き手に対して懇切丁寧に説明をするような感じではなかった。感覚から感覚に訴える感じで、何よりサビの歌詞が鬼のようにシンプルだ。もうちょっと何か説明してやれよと思いつつも、『Be My Last...』の『...』の部分は最後までわからないままだ。『どうか君が私の最後の…』…何なのだろう。この歌は答を与えない。その座りの悪さ、『かあさんどうして育てたものまで自分で壊さなきゃならない日が来るの?』という問いをそのまま吐き出して、それっきりな所がBe My Lastの個性であり、ポピュラー歌手としての"宇多田ヒカルらしくなさ"でもあった。

荒々しさは、桜流しの方が勝る位だ。まるで花嵐のような、そんか音の渦、音の密度である。しかし、この歌はきっちりと『答』を与える。愛である。

Everybody finds love in the end、全ての終わりに愛がある、そう言い切る。ここが大きく違うのだ。座りのよさ。Be My Lastとの最大の違い、そして「新劇場版ヱヴァンゲリヲン:Q」との最大の違いでもある。QはQuickeningの他に、当然Questionの含意もあるだろう。観客全員の頭に浮かぶクエスチョン・マークの数々。EVAQの存在意義、意図は須くそこに収束するのであるからそれでいいんだが、桜流しは楽曲として完結した作品であり、またBeautiful Worldと運命を共にしている為言い切れるのだ。It's Only Love, everybody finds Loveと。それがあるから、桜流しがEVAQのエンディングで流れる時、まるで映画全体を包み込むような力が溢れたのである。それはまるで、誰かの願いが叶うころがCasshern全体を手懐けたのにも似る。その包容力は、答を先送りしない強さからきている。『怖くたって目を閉じない』のだ。ある意味、桜流しは新劇場版の行く末が安泰である事も示唆してくれている訳だ。必ず最後に愛が
あるから、と。Qの脚本は読んでないけど:||の脚本は読んだ、とかないだろうな。そんな事を疑いたくなる位、桜流しは強い。そして、美しい。ここが7年前に較べていちばん光が成長した所なのかもしれない。

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日本語の歌の新しいジャンルといっても、ヒカルの場合毎曲新ジャンルを作っているようなもので、いわば別格扱いだ。桜流しはチャート上"異様"ともいえる存在感を放っているが、やはり未だに彼女は他のミュージシャンたちにとって"雲の上"の存在なのだろうか。

桜流しは日本語を大切にした歌である。一節だけ"Everybody finds love in the end."だけは英語だが、これは"Be My Last"だけ英語だったBe My Lastのようでもあるし、"Everybody feels the same"と繰り返した虹色バスのようでもある。歌詞の一部を英語にするのは繰り返し、リフレインに対応する為だ。日本語より英語の方がある一定のフレーズをリフレインし易い。

しかし、桜流しでは日本語でも繰り返しが現れる。『まだ何も伝えてない』の一節である。なくはないが、なかなかに珍しい。リフレインには様々な理由が考えられるが、ここの場所の場合は「大事な事だから二度言いました」の哲学だろう。その事実を口にする事で自分が気付き直す瞬間を捉えると、こうなる。「まだ何も云ってなかったな…そうだよ、俺何も云ってなかったんだよ」という具合。

もう一つ、冒頭の『開いたばかりの花が散るのを』が最後にもう一度出てくるが、これはリフレイン(refrain:繰り返し)というよりリプリーズ(reprise:反復)と言った方がいいかもしれない。最初と最後で、この風景を眺めていた主体が変わっている事を厳かに、且つ劇的に伝える事に成功している。

普通のリフレインは繰り返す事でフレーズを"印象づける"効果を目論むが、ヒカルが日本語で繰り返しを使用する場合は斯様に種々の背景がある。日本語の特質を理解した上での所行であるから、無理がない。こういう所も詞全体の美しさへの貢献の一部だといえるだろう。

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