『全ての終わりに愛がある"なら"』の"なら"は印象的である。英語部分は『Everybody finds love in the end』と、言い切っている。「誰しも最後には愛をみつける」と。しかし、この箇所の英語訳は"If at the end of everything, there is love"になっている。少し、そして決定的に意味が違う。
もし、この部分を英語詞のfinds loveと同じニュアンスにしたかったのなら『全ての終わりに愛がある"から"』と"から"になるのが妥当だ。英訳は、したがって、IfではなくBecause等になるべきだ。どう意味が違うかといえば、"あるから"だとすれば、最後に愛がある事を確信した状態であって、つまり私は恐怖から目を逸らしませんという確固たる決意表明たりえる。ところが"あるなら"は、注釈つきの話、である。彼女は、最後に愛があるかどうか知らない、確信がもてない、もてていない。それでも最後に愛があると信じて恐怖と向き合うという。こちらの方がより切ない。どちらがヒカルの歌声に似合うかといえば後者だろう。
何故日本語のタイトル曲でここまで"Everybody finds love in the end"を押してくるか一聴した時は疑問だったが、この一言だけ異なる視点からのものだと考えると合点がいく。もしかしたらこれは"神の声"のようなものかもしれないし、或いは"あなた"が遺した遺言のようなものかもしれない。いずれにせよ、最後に『愛があるなら』とその言葉を信じて生きていくと歌う主人公とは別の誰かの言葉(或いはそれは未来の"私"かもしれないが)である事を強調する為にここの部分だけ英語にして切り離したと仮定するとやや合点がいく。ひとつの曲の中で複数の視点が混じり合うのはヒカルの曲ではよくあることだが(といっても例えばどの曲か、すぐには出てこない私であった…)、こうやって明白に色分けしてもらえればわかりやすい。そして、それを意識して桜流しを聴き直すとより切なさが増す。ヒカルの術中である。
| Trackback ( 0 )
|