無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ポスターでかいわ(笑)。

2人のメッセージについてはまだ楽しみにしてる人が居るだろうから書くのは暫く待つか。まぁクレジットの話ならいいだろう。

その前に。ほんに邦楽のCD/DVDって素っ気ないなぁ。今やお布施で買うのが主流だからもう構わないんだけど。洋楽盤を買った時に伝わってくるあの「何とか買って貰おう感」が皆無だぁね。それが不満というより、そういうもんだよねという気分。今回も、映像は配信で買ってるしお目当ては正直ポスターですという人が多そうだ。

店頭の感触でいくと初週一万枚はいかないかな…EVAのヱの字もないからね。EVAファンが買う理由がない。これがCDシングルなら「Qの主題歌音源ktkr」となるのだが、河瀬Visionが加わる事でEVAが押し出される格好となった。最早このDVDシングルはEVA関連商品ではない。

逆にいえば、非常に純粋な宇多田ヒカルの新曲のリリースになったともいえる。そもそもEVAがなければ、EVAでなければ人間活動中に曲を書こうとすら思わなかっただろうからEVA抜きでこの曲を語る事は難しい筈なのだが、ビデオクリップの存在がその出自の堅牢さを淡く打ち溶かしたようにも思えてくる。ここらへんは個々人の感覚かな。

DVDを再生したら音源部分のサンプリングレートやビットレートなどをチェックせねば。単純に考えていちばんいい音で聴ける筈なのだ。えぇっと、音声部分を切り出すのは今法的にどうでしたっけね…だなんてリスナーが一瞬でも躊躇する事自体、この法律の負の効果が…まぁ、いいか。いい音で聴く為にはDVDプレイヤーを駆動させよう。

クレジットに関して。このいちばん上の「Produced by」は、何についてのクレジットなのだろう。普通に考えれば音楽部分のみなんだろうなぁ。映像の場合監督にあたる役職はDirectorだし。でもちょっと違和感。ミュージックビデオのクレジットってこれでいいの? 確かに、今手元にないけど、UHシリーズもDVDシングルもこんな感じで書いてた気がする。でも、これでいいの? 音楽と映像は全く別に作ってて統括責任者は居ないの? うーん…

いや、実質はヒカルが"総監督"なんだと思う。河瀬監督ともミーティングを重ねてヒカルの意向も随分映像に反映されただろう。ならば、そういう側面も鑑みた何か新しいクレジットを設置した方がいいかもしれない。

いやクレジットというのはその名の通り「あなたに取り分を差し上げますよ」のサインだからそうそう新奇な事もできないか。大事な所だもんね。しかし、今回は「CDシングルは出さずにDVDシングルを出す」という状況なのに、このDVDシングルは普通のDVDシングルであるように思う。極少数かもしれないが、配信を利用できずDVDも再生できる環境にない人の購入を阻害してまでの販売戦略なのだから、どこかこう、ブックレットに「今回は私が主役。替わりはいないわ。」という風格と責任感が欲しかった。これじゃまるで、先にCDシングルが出てるような、或いはCDシングルが同梱であるような、そんな錯覚を覚える。過渡期、かな。また次だ。

尤も、その事と内容の素晴らしさは関係がない。それとこれとは関係ない。


追伸気味に。三宅さんと照實さんが"エグゼクティブ・プロデューサー"として名を連ねているが要するにこれは"名誉顧問"みたいなもので、極端な場合だとただの名義貸しである。ヒカルの場合は、長年プロデューサーだった人たちなのでこの2人の名前がないと座りが確かに悪くなる。まぁそれはそれとして、今や完全にヒカルがイニシアシブを取るようになったんだなぁと感慨深くなってみるのも、いいかもしれない。

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桜流しでは、サウンド構造にも表れているように「目線・視線」の動きが重要である。

『見ていたあなたはとてもきれいだった』の一行には、花が散るのを見ていた"あなた"の視線と、その横顔を見る"私"の目線の両方が含まれている。見る人を見る人。この思い出の中の情景から今という時点の仮想の中で『もし今の私を見れたなら』という"あなた"から"私"への視線に推移する。"私"から"あなた"への目線は変わらずそのままだから、この視線と目線は交錯する。仮想の中で。

翻って次のパートでは、視線と目線から「音」に話が移る。『今日も響く健やかな産声を聴けたなら』に『私たちの続きの足音』。ここでは"私"が鑑賞の対象とする(『とてもきれいだった』)相手の存在もないし、目と目を合わせる相手の存在はない。既述の通り、疑問を投げかける(『見れたならどう思うでしょう』)最初のパートと、確信をもつ(『聴けたならきっと喜ぶでしょう』)二番目のパートという組み合わせである。視線と目線が交錯する視覚の物語はこちらが見る者がこちらを見る者でもあり、自己と他者の物語になる。即ち、相手の心がわからないから「他者」なのだ。他方、聴覚の物語は心を一つにして同じ気持ちになろうとする共感の物語。私とあなたは相対する存在というより同じ場所に立つひとつの存在となる。その為聴覚の物語は確信を以て届けられる。ここらへんの対比が巧い。疑問と確信を、視覚と聴覚の性質と呼応させているのだ。

そして、次のパートで『もう二度と会えない』と視覚("会う")、及び『まだ何も伝えてない』と聴覚("伝える")の両方を組み合わせてくる。ここが何ともドラマティックだ。実に練られた歌詞構成である。

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