無意識日記
宇多田光 word:i_
 



一方、桜流しには全く音韻がないなんて訳でもない。

『もう二度と会えないなんて信じられない
 まだ何も伝えてない
 まだ何も伝えてない


『ない』が4度繰り返されている。ただこれは『韻を踏む』とは言えないかもしれない。普通音韻というのは単語のうちの幾つかの音素が共通であるとか子音は同一で母音は異なるとか母音は同一で子音が異なるとか、そういった「全て同じではないが幾らか似ている」節同士の関係を指すものだ。これは、本当に『ない』をただ繰り返しているだけである。更に、1度目の『まだ何も伝えてない』と2度目の『まだ何も伝えてない』はメロディーが違う。

符割りを区切って書くと上記の3行はこういう具合だ。

『―もうにど―と/あ――えな―い―
 なん―てしんじ/ら――れな―い―
 まだな―にも―つ/たえてな―い―』

何だか『もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対』By槇原敬之をついつい思い出してしまうが、どちらにも共通するのは否定と関係ない『なんて』が挟まれている事だ。これを抜かして普通に「もう二度と会えないとは信じられない」「もう恋はしないとは言わないよ絶対」と言ってしまえばさして難しい文章ではない。ただ「なんて」に惑わされているだけである。

「なんて」は「などと」の転であり、否定の「ない」とは直接関係ないが、婉曲と強調と疑問を同時に兼ね備えるという特異な性質をもつ副助詞だ。したがって、周りの「ない」の否定を強めたり、あわよくばその疑問形に近い使われ方で、反語表現に近い強調文を構成したりする。こんな単語を放り込んでくるなんて、ヒカルはやっぱり巧みだなぁ。


…といういつもの軽い調子で締めくくるとどうもしっくり来ないのは、それだけこの歌の歌詞がシリアスだからだ。余り技巧な話にせず、もっと感性に依った話にもっていこうかな。

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桜流しには音韻技術の駆使が、常なヒカルと較べて殆ど出てこない。数百字の音韻構造に数万字を費やす(それでもまだ足りない)のがヒカルの曲なのだが、この曲に関してはそれが当てはまらないのである。

これは、曲調による。リズミカルで高揚感がある楽曲であるなら、押韻は効果的である。韻が生むのはリズムであるから。桜流しはリズムで押す側面が殆どみられない。ベースもドラムも、リズムセクションと呼ばれる楽器陣は重厚さの演出に回っている。

韻を踏んでいると、どうしても楽しくなってしまう。詞の内容に関わらず。いや、そもそも歌詞の音韻に注目させる事自体、詞の内容から離す行為であるから、詞の意味内容に耳を傾けて貰おうというのであれば、音韻は極力外すか、あっても控えめでなくてはならない。

桜流しに音韻構造が殆どみられないのは、それだけ歌詞の内容が大切だからである。意味が伝わればいい。早い段階でHPに英語訳を掲載した理由と同じである。

同じように"リズムを抜いた"楽曲として思い出されるのがFINAL DISTANCEだ。ストリングスとピアノとコーラスワークの三位一体、と毎度言っているが、元曲のDISTANCEが弾けるようにPopで切ない楽曲であるのに対し、非常に厳かで充足した楽曲になっているが、基本的に歌詞はDISTANCEと同じものなので、その名残が幾らか残っていたが、桜流しにはそういった"枷"はないので、かなり大胆である。

前も触れたように、『どんなに怖くたって目を逸らさないよ』の一節は完全に音韻どころかメロディーからも外れている。しかし、こう言いたかった。逆説的だが、メロディーからもリズムからも外れる事で歌詞のメッセージ性は増す。そこの要点がメロディーでもリズムでもない事が示唆されるからだ。

特に、楽曲の前半部分は歌詞の語る物語に注視するべく、メロディーが一定しない。ここが後半と対照的で、且つこの曲がとっつきにくい理由でもある。Popソングのつもりで軽く聞き流している人にとってはこの部分は何か遠くの方でもごもご言っていて地味、という印象を与えるだけだろう。しかし、言葉に耳を傾ける人にはありありと情景が浮かんでくる。ここで差が出る。

今回映像作品に注力したのも、そうやって聞き流してもらうより、楽曲と面と向かって対峙してくれた方が真意が伝わるからだ。視界を占有する事で声も届きやすくなる。どこまでもしっかりプロデュースされた作品、及び作品形態である。

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