哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

複数の現実の使いまわし

2009年03月21日 | x9私はここにいる

Barbiergeorges31

ほかの霊長類に比べても、特に視力に優れていて手が器用な人類は、道具製作や、狩猟採集や戦争などの実務において物質操作を精密に実行するのに都合がよい身体をもっている。この視力や手指を使いこなすには現実1(客観的物質世界)を使うと便利です。また、仲間と運動を協調させて協力するには、自分の身体を客観的な物質とみなして、道具のように操作することができるとよい。そのためには自分の身体が客観的物質世界(現実1)の一部分であることを把握する必要がある。

さらに言葉を使って人々と付き合い、人間関係を操作していくには、人の心、つまり自他の内面を感知し操作することができる現実3が有利でしょう。結局、私たちは、現実1、現実2、あるいは現実3のどれをも使いこなす必要がある。

実際、実生活ではいろいろな場面が次々に来る。どの現実が本物か、などと考えずにうまく現実を使い分けていくほうが、生きやすいはずです。その場その場で便利な道具として、それぞれの現実を使ってやりすごせばよいわけです。それでは人間存在として矛盾している、現実が統一されてない、存在が確立していない、などと哲学者が文句を言っても、気にする必要はない。私たちが毎日使っている現実感覚、つまり複数の現実の使いまわし、が一番うまくいく。

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非言語動物の世界

2009年03月20日 | x9私はここにいる

客観的世界の現実、あるいは自己中心的世界の現実。それら異なる仕組みで働く複数の現実を、私たちが違和感を持たずに単一のものとみなして言語で表現していくことは、哲学者たちが指摘するように、おかしいといえばおかしい。しかし実用的にはあまり困らない。むしろいろいろな場面で、いろいろな現実を適当に使いこなしていくことは(拙稿の見解では)、人間の生存繁殖に有利に働く。

猛獣に襲われたときなど緊急の反射運動を起こすには、現実2(自己中心的世界)を使うと便利。しかし、自己中心的観点だけでは、他人の動きの意味が分からないので社会行動がうまくできない。また、他人と自分の関係というものもないので、他人から見た自分の行動というものの評価や学習、記憶ができない。したがって、将来の自分という予想もできない。人間以外の非言語動物や、人間だと赤ちゃんの世界は、これですね。

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代名詞には欠陥がある

2009年03月19日 | x9私はここにいる

Barbiergeorges30

代名詞は、かなり早くから開発されたでしょう。そしていったん使われるようになると、たちまち普及しただろう、と(拙稿の見解では)推測できる。しかし、この語法には欠陥があった。私、ここ、今、と言っているうちに、世界と私の関係に疑問が出てきてしまいます。

「私はここにいる」というセンテンスのように、人称代名詞一人称(私)、あるいは指示代名詞(ここ)が主語、述語の中心に使われる場合、種々の現実が入り乱れることで理論的な混乱や違和感を引き起こす。客観的空間表現と自己中心的空間表現が入り乱れる。私たちは「渋谷駅ハチ公前」と言ったり、「私の右のほう。そっちじゃない。あっちのほう」と言ったりする。それでも、私たち人間は、皆が同じように混乱したり勘違いしたりしても、うまく話をあわせてしまう能力を持っている。それで、ふつう会話は支障ないかのように続いていく。ただ、ときどき、哲学者など論理に敏感な人たちが現れて、論理的矛盾を指摘し、混乱を露呈させる。哲学者は、「あなたが言っている私は、私が言っている私ではなくて、私が言っているあなただから、私とは違う」などと言い出すわけです。

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交換可能な自己中心空間

2009年03月18日 | x9私はここにいる

代名詞は便利です。客観的空間で表現するように作られている言語システムの中で、自己中心空間での表現を使うことができる。代名詞によって、話し手は聞き手を、確実に話し手の自己中心的空間に乗り移らせることができる。代名詞が使われると(拙稿の見解では)、聞き手は、話し手の身体の位置に乗り移って、そこを原点として世界を見渡さなければならない。こうして、話し手と聞き手は、相互に相手の身体に乗り移りながら、共有する客観的世界について語り合う。互いの気持ちがよく分かる。自分を、うまく表現できる。これは便利です。

話し手が「それ、それ、それだよ」と言う。聞き手は、話し手の視線方向を見取って、それらしきものを取り上げ「どれ?どれ?これ?」と聞き返さなければなりません。つまり、聞き手は、話し手の身体に乗り移って、その目の位置から世界を眺めなおさなければならないのです。こうして、会話する人どうしは、互いの自己中心世界を感じ合う。それによって、自己中心世界(現実2)を、人間のだれもが、同じように持っていて、交換可能であることを確認できることになります。このことを知った上で聞き手は、本来自分の身体に固着しているはずの自分中心空間を、自分から取り外し、話し手の身体のところまで自由に移動させて、その身体に仮に取り付けて、その空間の視座から世界を眺めなおすことができる。これが代名詞の重要な機能です。

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自己中心空間→代名詞

2009年03月17日 | x9私はここにいる

Barbiergeorges29

人類の言語は、どの言語でも代名詞をよく使う。私、あなた、彼、彼女、それ、これ、ここ、などです。代名詞は、普通名詞や固有名詞のように客観的物質世界(現実1)に準拠して対象を指示するのではなく、話し手を中心とした自己中心空間に準拠して対象を指示する。そのため、代名詞を使うと自己中心的現実(現実2)が言語システムに入り込んでくる。(今、という語は代名詞ではないが、自己中心的に時間を表わすとき使われるので拙稿では、代名詞と同様に扱う)

たぶん(拙稿の見解では)、人類は客観的物質世界(現実1)を共有できるようになってすぐ、言語を使うようになった。はじめ、言語は客観的物質世界(現実1)だけを表現していた。普通名詞はあったが、代名詞はなかった。言語を使うようになった後も、人間は、自己中心的世界(現実2)を忘れたわけではなく、両方の現実にまたがって生きていたわけです。そのうち、言語を使って自己中心的世界(現実2)を言い表せるようになった。その仕掛けが、代名詞を使う自己中心的な空間表現でしょう。

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