先日ある電車の中で、男子高校生が、「きのう、おれ、○○と生で話した」と言っているのが聞こえました。
最近は会って話すことを生で話すというのか、と感心していたら、さにあらず。
どうやら携帯電話で会話をした、ということらしいのです。
なるほど、確かに昨今はスマートフォンの登場により、携帯電話は電話機能がついた端末というべきで、実際に電話をすることは珍しいんですねぇ。
一昔前は電車内で携帯電話で会話して顰蹙をかっている人が大勢いましたが、今は見かけなくなりました。
特に若い人ではまずいません。
彼らはメールやインターネット、テレビやゲームなどで遊んでいたのですね。
コミュニケーションの方法が大きく変わってきたようです。
携帯にどれだけ多くの友人のアドレスが登録されているかを競い、昔シカトと呼んでいたクラスメイトを村八分にするゲームを、携帯を着信拒否に設定することによって行っていると聞きました。
これはじつに陰湿ですね。
何食わぬ顔をして、ある時突然、大勢の友人からメールを拒否される。
しかも相手の顔は見えず、無機質な携帯のディスプレイが見えるだけ。
「かくれんぼ」ができない子どもたち、という書物に書かれていましたが、今の子どもはかくれんぼができないそうです。
隠れても、わざと音を立てたり、衣服の一部をはみ出させたりして、すぐに見つかるようにしてしまうのだとか。
それは隠れる子も鬼も、両者が孤独を強く怖れるからだとか。
かくれんぼも鬼ごっこも、子どもにとってはとても怖ろしい遊びでした。
鬼が追ってくると、本当に取って食われるような恐怖を感じましたし、かくれんぼで神社の縁の下に隠れて息を潜めていると、このまま永遠にみつけてもらえないのではないかと思いました。
それら恐怖体験や孤独体験は、成長していく過程で必要なものであり、だからこそ子どもは元気よく遊びましょう、という教育がなされたのでしょう。
しかし、今の子どもは恐怖も孤独も体験したくないし、そんな遊びは面白くないのでしょう。
コンピューターの電子信号でしかないテレビゲームのほうがよほどお好みなようです。
でもそれは、大人社会の縮図。
社会人同士のちょっと一杯とか、気がついたら隣のグループと一緒に飲んでいたとか、恋人同士が一緒に映画館に足を運ぶということが減ってきているそうです。
酒は個室で親しい人と飲むか、一人で飲む。
映画館に行くのは億劫なのでレンタルで、しかもレンタル店には行かず、宅配レンタルで、彼と彼女はそれぞれ観たい映画を別々の部屋で観るとか。
コミュニケーションが希薄になっていることは間違いありません。
しかし、それが悪いというわけではないでしょう。
利便性の高い資本主義国で、モノや便利なサーヴィスがあふれれば、当然の帰結。
後は、コミュニケ―ションが希薄になった社会が当たり前とされた時、自分の身の処し方を考えておくことでしょう。
順応するのか、シーラカンスとなるのか。
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「かくれんぼ」ができない子どもたち |
杉本 厚夫 | |
ミネルヴァ書房 |