スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

本性の実現&戦略

2022-07-24 19:05:43 | 哲学
 僕はフロムErich Seligmann Frommは,徳とコナトゥスとを混同して理解しているのではないかと思います。すなわち,本来であれば人間であれ馬であれ,現実的に存在するすべての個物res singularisの,能動状態であろうと受動状態であろうと同様の本性essentiaと,能動状態における現実的本性actualis essentiaに限られるような徳virtusと同一視していると思います。なお,前にいったように,第四部定義八からして僕は徳というのを人間に特有の概念notioとしてスピノザは考えているという見解opinioをもっているのに対し,フロムはおそらく徳というのを人間に特有の概念としては解していないと思われますが,このことは徳について僕のように理解しようとフロムのように解そうと,同じことです。つまりフロムは,徳というのが現実的に存在するすべての個物,あるいは少なくとも馬に代表されるような生物には成立する概念として考えていますが,その場合にもその個物の徳と個物のコナトゥスconatusとは異なるのであり,しかしその異なったものをフロムは同一視していると僕は考えます。
                                        
 したがって,当該箇所のフロムの主張は,このことを前提として理解しなければならないと僕は考えます。
 この部分の最後のところで,フロムは,人間にとっての徳は,人間の本性natura humanaの実現,現実的本性の実現と同一であるという意味のことをいっています。このことは,第四部定義八に照合させると,スピノザの哲学について誤ったことをいっているわけではないと僕は考えます。というのは,人間が自分の現実的本性だけによってあることをなすということは,ある結果effectusに対して自身の現実的本性が十全な原因causa adaequataであることをなすというのと同じであって,それが徳といわれているからです。そして,自身の現実的本性が十全な原因としてある結果を生じるということは,その人間の現実的本性が結果を通して十全に表現されるexprimunturという意味であって,それは人間の現実的本性が実現されるといっているのと同じことだと解して問題ないと僕は考えるからです。ただし,ここでいわれている徳についてもフロムはコナトゥスと混同しているのであって,その限りでは正しくありません。人間の現実的本性は部分的原因causa partialisとしても表現されるのであり,それは徳ではないとしてもコナトゥスではあるといわなければならないからです。

 第一部定義七を正しく理解するために,最も重要なことは次のことです。
 自己自身によって決定されるものを自由libertasというとき,スピノザはそのことを自己の本性の必然性によって決定されるといういい方をしています。一方で,ほかのものによって決定されることを強制coactusというとき,スピノザはそうしたものを必然的necessariusといっています。これでみれば分かるように,スピノザは自由であるものは必然性necessitasによって自由で,強制されるものは必然的に強制されるといっているのです。したがって,自由であるものも必然だし,強制されるのも必然だとスピノザはいっていることになります。
 ここにはスピノザのある戦略が含まれています。というのは,今でもそうかもしれませんが,とくにスピノザが哲学をしていた時代には,必然というのは自由の反対概念であったのです。つまり必然的なものは自由ではあり得ないし,自由であるものは必然的ではないと考えられていたのです。スピノザの戦略というのは,その考え方を覆す点にあります。つまりスピノザは,必然というのは自由の反対概念ではないということを,この定義Definitioにおいて示そうという意図があったのです。
 なぜ必然が自由の反対概念ではないのかといえば,スピノザは自由を意志voluntasとは結びつけていないからです。他面からいえば,自由を必然の反対概念として考えるということは,意志と自由とを関連付けるということに直結するのです。つまり,あるものが何かに決定されるというとき,もしそのものの意志によって決定されるのであればそのものは自由といわれ,そうでないものに決定されるならばそのものは自由ではないすなわち必然であるといわれるのです。スピノザはそれを否定します。それは,あるものが何かに決定されるというときに,それがそのものの意志によって決定されるということはあり得ないというようにスピノザは考えているからなのです。『スピノザ〈触発の思考〉』では,あらゆる個物res singularisに,スピノザは恣意的な自己決定という意味での自由を認めていないという主旨のことがいわれています。この恣意的な自己決定を意志と解すると,スピノザはこのことを個物に対してだけ認めていないわけではありません。

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