スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&第三部要請一

2013-08-10 18:51:40 | 将棋
 昨日は第26期竜王戦決勝トーナメントの左の山の準決勝もありました。1組優勝者として待ち構えていた佐藤康光九段と対戦することになったのは,1組4位だった郷田真隆九段。対戦成績は佐藤九段が27勝,郷田九段が24勝。
 振駒で郷田九段の先手。佐藤九段は一手損角換り4からダイレクト向飛車。先手は乱戦にはせず,その後も後手は挑発的な手順であったと思うのですが,落ち着いて対応。後手が穴熊,先手が銀冠に。王道と覇道の対決といった印象でした。
 昨夜は途中は観戦していまして,的確な表現かどうか分かりませんが,将棋というものが若干でも先手に利があるのなら,その利をずっと先手が保っているというように感じていました。
                         
 ここで☗6六角。観戦中の局面で,これは好手だと思いました。後手は☖7四桂。☗3三歩と叩いて☖6六桂☗3ニ歩成☖7八桂成☗同金。さらに☖4七角成☗同銀☖同銀成と大きな振り換りに。そこで☗8四歩と穴熊の急所に手をつけました。後手は☖5七角ですが構わず☗8三歩成☖同銀☗9五桂と攻め合いました。そこで☖9四銀打。
                         
 時間の都合があり観戦はここまで。後ろ髪を引かれる思いもありましたが,これは随分と先手がよくなったと感じてはいました。
 今日になって続きを見たところ,意外に混戦になっていて驚きはしましたが,先手が勝っています。ただ昨夜の時点で感じていたような差は,少なくとも第2図の時点ではなかったようです。
 郷田九段が挑戦者決定戦三番勝負に進出。その第一局は来週の木曜日です。

 これで,現実的に存在する個物res singularisに対する存在の限定というのが,その個物の力potentiaという観点からみた場合に,具体的にどのような事柄を意味しているのかということが明らかになりました。すなわち個物の自己保存の力,いい換えればそれが個物の現実的本性actualis essentia,あるいは本性と実在性のスピノザの哲学における関係は,力という相の下に本性をみるならそれが実在性realitasとみなされるという点に留意するならば,これは個物の現実的実在性といういい方も可能であり,またその方がより相応しいのかもしれませんが,そうした個物の現実的本性ないしは現実的実在性が,何ものによっても阻害されたり排除されたりしない限り,その個物は何ら変化を伴うことなく,その現実的存在を維持し続けます。そしてこの間は,その個物は一切の限定を受けていないのだと把握されなければなりません。いい換えれば,現実的に存在する個物がある限定を受けるというのは,その個物の現実的実在性,すなわち力という観点からみられた現実的本性に,変化がもたらされるということなのです。
 ただし,この変化というのは,現実的に存在している個物にとって,必ずしも悪しき変化であるとは限りません。第三部要請一では次のようにいわれています。
 「人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激されることができるし,またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激されることもできる」。
 スピノザはこの要請は第二部自然学②要請一第二部自然学②補助定理五と七に基づくといっています。ここではこの要請の正当性に関して探究する必要を感じませんので,僕としてもそれ以上の補足は付加しません。おそらくこの要請が妥当なものであるということについて,反論が生じるようなおそれは皆無であろうと思うからです。
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2 コメント

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Unknown (うに)
2013-08-10 20:17:02
スピノザを勉強して1年目の若輩者です。
スピノザは「私」というものを考えるとき、どのようにして考えていたのでしょうか。
「私」すら観念の集合であって、形相としての「私」はありえないのでしょうか。
お答えいただければ幸いです。
僕の考えです (spinoza05)
2013-08-10 21:12:04
コメントありがとうございます。

僕の考え方としてお答えします。

まず端的に形相としての「私」の有無に関していえば
それはあると考えるのが適当だと思います。

ただその「私」について考えるということは
「私」が観念対象ideatumになるという意味です。
いうまでもなく考えるのは精神なのであって
身体が考えるということはあり得ないからです。
なので何かについて考えるということは
その観念対象が「私」であろうとなかろうと
観念ないしは観念の集合を形成するということです。

しかしそれは「私」が観念の集合であるということを
即座に意味するものではないと僕は理解します。

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