スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ゴールド・ウイング賞&同じ意味

2018-04-22 16:48:42 | 競輪
 西武園記念の決勝。並びは新山‐成田‐和田の北日本,平原‐芦沢の関東,浅井‐吉田の中部,三谷‐井上の西日本。
 浅井がスタートを取って前受け。3番手に新山,6番手に平原,8番手に三谷という意外な周回に。残り3周のバックから三谷が上昇。井上の後ろに平原も続きましたが,三谷はすぐには抑えにいかず,新山の横で蓋をしながらホームを通過。打鐘前のバックに入ってから浅井を叩きました。進路ができた新山がここで発進。そのまま三谷を叩いて先行。4番手に三谷,6番手が浅井。新山が発進したときにバックを踏んでしまった平原が8番手の一列棒状に。バックから浅井が発進。三谷がこれに併せて出て浅井は失速。しかし三谷にも捲る余力は残っていませんでした。直線に入ってから新山を抜きにいった成田の外から和田が突き抜けて優勝。三谷マークから成田と和田の間を伸びた井上が半車輪差で2着。逃げ粘った新山が半車身差の3着で伸びを欠いた成田がタイヤ差の4着という大波乱の結果に。
 優勝した宮城の和田圭選手は1月の大垣のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初優勝。このレースは新山の先行が有力で,だれが4番手を取るのかが最大の焦点。ただ,平原,浅井,三谷と力がある選手が揃っていたので,互いにあまりに牽制し合うようだと新山の逃げ切りも含めて北日本勢にも優勝の可能性があるだろうと思っていました。三谷はうまく4番手を取りましたが,取るときに脚を使ったため,捲るだけの余力は残っていなかったよう。なので北日本勢に有利な展開のレースとなったのですが,和田の突き抜けての優勝は個人的にノーマークだっただけに驚きました。

 ある観念ideaが外来的特徴denominatio extrinsecaからみられた場合に真の観念idea veraなら,その観念は同時に十全な観念idea adaequataでもあります。したがってある人間の知性intellectusあるいは精神mensのうちに,Xの真の観念があるなら,それはXの十全な観念ですから,その人間の精神のうちにXの十全な観念があるということになります。
 逆に,その観念が真の観念ではない場合,すなわち誤った観念である場合は,その観念は十全な観念ではありません。よってある人間の精神あるいは知性のうちにXの誤った観念がある場合には,その人間の精神ないしは知性のうちに,Xの十全な観念があることにはなりません。そして外来的特徴からみられたとき,真の観念ではない観念は誤った観念といわれるように,十全な観念ではないという観念についてもそれを明示する語があります。これを僕は混乱した観念idea inadaequataといいます。よってある人間の知性ないしは精神のうちにXの誤った観念があるときは,その人間の精神あるいは知性のうちにXの混乱した観念があるのです。
 ただし,ここでも気を付けなければならないことがあります。第四部定理一は,誤った観念は真の観念が真verumであるというだけでは除去され得ないという意味のことをいっています。したがって,Xの真の観念とXの誤った観念は,同じ人間の精神あるいは知性のうちに同時にあることができるのです。よってXの十全な観念とXの混乱した観念が,同時に同じ人間の精神ないしは知性のうちにあるということも生じ得ます。
                                     
 次に,Xの十全な観念がある人間の精神あるいは知性のうちにあるなら,この人間の精神あるいは知性のうちにはXの真の観念があるのであって,逆にXの混乱した観念がある人間の知性あるいは精神のうちにあるのなら,その人間の精神あるいは知性のうちにはXの誤った観念があるのです。この意味において,『ゲーテ『親和力』における「倫理的なもの」』でいわれているように,事物を真に認識するというのと事物を十全に認識するというのは,ほぼ同じ意味です。いい換えれば真の観念と十全な観念はほぼ同じ意味であり,誤った観念と混乱した観念もほぼ同じ意味です。
 ではなぜふたつのいい方がされるのでしょうか。
コメント
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