スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

三稿&第二部定理三二証明

2017-07-08 19:10:55 | 歌・小説
 『悪霊 別巻』に翻訳されている三稿には,それぞれ長所と短所とがあるといえます。
                                     
 初稿版は,最初の段階でドストエフスキーが『悪霊』の第二部第九章として書いたものです。つまりドストエフスキーが小説の中の一部に組み入れようとしていたテクストそのものといえます。この点が初稿の最大の長所といえるでしょう。
 ドストエフスキー稿は,そのままでは掲載できないことを知ったドストエフスキーが,掲載できるように手を加えたものです。したがって当初の意図とは異なったテクストとなっている筈ですが,ドストエフスキー自身がこれでもよいと考えたというのは間違いないといえるでしょう。
 もしもドストエフスキーという作家が,しばしば初稿に手を入れる作家であったとしたら,ドストエフスキー稿はむしろ初稿よりもドストエフスキーの意図が明確になっているかもしれません。ですからこの場合にはむしろ初稿の方がドストエフスキー稿より欠点をもっていることになります。ですがおそらく事実はそうではなく,ドストエフスキーはこの部分も雑誌に掲載したいと思い,渋々ながら手を入れたのでしょう。つまりドストエフスキー稿の方がこの点での欠点は多く抱えていると僕はみます。
 結果的にこの部分は雑誌に掲載されないまま完成し,後に単行本化されました。それでもドストエフスキーは自然な形でこの部分を組み入れたいと思い,また書き直したのだとすれば,それがアンナ稿であると考えることができ,『悪霊』の全体の中に組み込むという点では,アンナ版が最も優れているといえるでしょう。しかしこれはアンナによる清書なのであって,確かにドストエフスキーがそのように手を入れたということが確実視できません。雑誌に掲載することができなかったのは少女に対する凌辱が含まれていたからであり,アンナ自身がいわば善意による改ざんをする可能性すらあるからです。
 このように,三稿に一長一短があります。これを付録のようなものとみなすのか,『悪霊』の一部をなすものとみなすのかによっても,どれが優れているかという評価も変じてくるでしょう。

 第二部定理三二のスピノザによる証明Demonstratioを詳しく分析します。
 スピノザはまず第二部定理七系に訴求します。そしてそこから,Deusの中にあるすべての観念ideaが観念されたものideatumと一致することを示します。
 第二部定理七系の意味というのは,本来は神のうちにある観念はすべて十全adaequatumであるということなのであって,この論証のように,真verumであるということではありません。実際にスピノザが何かを証明するときにこの系Corollariumを援用する場合は,神のうちにある観念がすべて十全であるということを示すことがほとんどです。そういう意味ではこの論証は例外に該当するといえるでしょう。
 ただ,第二部定理七系でいわれていることのうち,神の無限な本性infinita Dei naturaから形相的にformaliter生じる事柄と,神の観念Dei ideaから客観的にobjective生じる事柄は,同一の秩序ordoでありまた同一の連結connexioであるということを重視するなら,それらの観念はいずれも十全であるということが帰結しますが,同一の秩序と同一の連結をもって形相的にも客観的にも生じるということの方を重視すれば,それは真であるということを帰結させることもできます。ですからスピノザの論証方法が不当であるということにはなりません。
 続けてスピノザは,第一部公理六に訴求し,観念されたものと一致する観念は真の観念idea veraであるといいます。したがってすべての観念は神に関係する限り真omnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, veraeであるということの論証が完結します。
 よって,スピノザの証明には瑕疵はありません。そして同時に,次のことも分かります。第二部定理七系は,神の思惟する力Dei cogitandi potentiaと神の働く力agendi potentiaが等しいということをいおうとしています。この意味においての神というのは,第一部定義六でいわれている神,すなわち絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamでなければなりません。とりわけこのことは,ここで神の観念といういい方をしていることから明白です。この神の観念というのは,たとえばある人間の精神mens humanaのうちにある神の観念という意味であることはできません。むしろ神のうちにある神自身の観念と解する必要があるからです。
 ですから第二部定理三二で証明されている神というのは,絶対に無限な実体です。何らかの様態的変状modificatioに様態化した神ではありません。
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