スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

しらさぎ賞&有意味性

2013-05-01 19:20:59 | 地方競馬
 今年もゴールデンウィーク前半の南関東競馬は浦和開催で,今日がメーンとなる第51回しらさぎ賞
 先手を奪ったのはサクラサクラサクラでしたが,ナターレはほとんど並んでの追走。3番手はセンゲンコスモで,以下リアライズノユメ,ハルサンサン,ラヴァリーズーム,ツキノテンシ,マニエリスムと続き,行き脚がなかったクラーベセクレタはその後ろから。最初の600mは37秒5のミドルペース。
 クラーベセクレタは向正面から外を進出しようとしましたが,前に追いつくところまでいかれず早々に圏外。逃げていたサクラサクラサクラを追走していたナターレが,直線に入ってから余裕綽々で交わすと,そのまま2馬身の差をつけて快勝。3番手追走のセンゲンコスモが流れ込む形で2着。ほとんど直線だけの競馬になったマニエリスムがよく伸び,頭差で3着。
 優勝したナターレは一昨年9月の戸塚記念以来の南関東重賞3勝目。昨年は盛岡の重賞を勝っていますし,前走も勝っているように,力が減退していたわけではなく,収得賞金の関係からあまり南関東重賞には出走していなかっただけ。このメンバーで能力最上位というわけではないと思いますが,南関東重賞でそれも牝馬限定戦なら勝つ力はある馬で,優勝候補の1頭と考えていました。浦和は初出走でしたし,この距離も新馬戦以来でしたが,共に適性は高いものがあったということだと思います。父はクロフネ。母の父はダンスインザダーク。祖母の全姉に1993年のセントウルステークスを勝ったエリザベスローズ。その産駒に2000年の弥生賞を勝ったフサイチゼノン,2001年にきさらぎ賞とスプリングステークスを勝ったアグネスゴールド,2006年のガーネットステークス,根岸ステークス,東京盃,兵庫ゴールドトロフィー,2007年の黒船賞,東京盃,兵庫ゴールドトロフィー,2008年のさきたま杯を勝ったリミットレスビッド。Nataleはイタリア語でクリスマス。
 騎乗した大井の的場文男騎手は桜花賞に続いて浦和の南関東重賞を連勝。第37回と49回を制していて,2年ぶりのしらさぎ賞3勝目。管理している川崎の内田勝義調教師はしらさぎ賞初勝利。

 ある事柄が人間にとって自明であるといわれ得ることの所在地が,人間の精神の事物の認識のシステマティックな,あるいはオートマティックなあり方の中にあるからといって,そのシステム性,ないしは自動性そのものが自明といわれるわけではないということは,ある意味では当然のことです。なぜならスピノザの哲学における人間の精神による事物の認識というのは,そのすべてがこのような認識する精神の決意の不在,また精神の自由意志の否定を含むという特異性を有しているからです。つまりもしもこうした認識それ自体を自明というのであれば,人間の精神による事物の認識は,そのすべてが自明であるということになってしまいます。また,僕の考え方からすれば,とくに人間の精神に限らず,おおよそすべての精神による事物の認識について,それを自明とみなさなければならなくなってしまうでしょう。
 もちろん,自明であるということを,そのように把握してはいけないということはありません。それは僕も認めます。しかし一方で,もしも自明ということをこのようなこととして把握するのが正しいのであるとすれば,そもそも自明であるということは,ほとんど何の意味ももっていないということになります。いい換えればそれは,たとえば定理の論証には用いることが不可能であるようなことばということになるでしょう。論証は認識されることを前提として行われる営みであり,そのすべてが自明であるならば,論証の必要性がないということに等しいからです。
 また,人間の精神による事物の認識のあり方そのものが自明であるということの意味ではないということは,第四部定理三二からより明らかであるといわなければなりません。この定理のうちには,もしも人間の精神が受動によって事物を認識するならば,その事物の認識のあり方は一致しないということが含まれていると考えられるからです。いい換えれば,Aの観念を原因として,ある人間XはBを知覚し,別の人間YはCを知覚するという場合が生じ得るということが,この定理には含意されているといえます。実際にスピノザはこのことを,第二部定理一八備考に示しています。
コメント
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