スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

捏造の意図&基本原理

2018-04-27 19:01:06 | 哲学
 『スピノザ―ナ15号』で高木久夫がいっているように,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』ではスピノザは確かにある捏造を行っているのだと僕は考えます。しかし,それがスピノザの主張したいことと関連して,重要な捏造である,いい換えれば主張の正当性を弱めるような捏造であるとは僕は考えないです。
                                     
 捏造された部分と関連してスピノザが最も主張したかったことは,理性ratioが聖書に従うべきであるということを主張する懐疑論者scepticiだけが誤っているわけではなく,聖書が理性に従うべきであるということを主張する独断論者dogmaticiも同じような過ちを犯しているのだということであったと僕は解します。これは『神学・政治論』において,前者は理性なしに狂っているのだけれども,後者は理性とともに狂っているのだという意味のことが記述されているのですから,少なくともスピノザにそのような主張があったということは疑い得ないでしょう。
 このときにスピノザは,懐疑論者の代表としてはマイモニデスMoses Ben Maimonidesを批判し,独断論者の代表としては,自身が捏造したとみられるアルパカルを批判したのです。実際にはアルパカルは独断論者を代表するようなユダヤ教学者ではないということは高木がいう通りであると僕は考えますが,しかしスピノザの主張の主旨からすれば,独断論者の誤りを指摘することができるのであればそれはだれでも構わなかった筈であり,アルパカルである必要はなかったのです。むしろ高木が匂わせているように,スピノザが独断論者として自身のうちで解していたのは,マイエルLodewijk Meyerであったでしょう。
 このようなわけですから,僕は実際にアルパカルが独断論者を代表するような人物であるとスピノザが考えていたとは思わないですし,アルパカルの主張をスピノザが誤って解釈したというようにも解しません。むしろそれらについては正確に把握していて,あえて捏造を行ったのだと解します。アルパカルはさほど有名ではないのですから,捏造を行うには適した人物であるとスピノザは考えたという可能性すらあるように思えます。
 『神学・政治論』には確かに捏造があったと考えるべきでしょう。ですがそれはスピノザの主張の主旨には影響していないと僕は考えます。

 観念ideaと観念されたものideatumの間には因果関係はありません。したがってXとXの観念の間には因果関係がありません。よってXはXの観念がなくても存在することができますし,Xの観念はXがなくても存在することができます。ところがXの原因がYであるならXの観念の原因はYの観念で,逆にXの観念の原因がYの観念であるならXの原因はYであるということは成立するとスピノザはいいます。このいわゆる平行論はなぜ成立するのでしょうか。
 この主だった理由は,第二部定理七系にあるように,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaは神が働く力agendi potentiaと等しいということです。このために,第二部定理六でいわれていることは,神のすべての属性attributumに対して同じ秩序ordoと連結connexioで思惟の属性Cogitationis attributumのうちに生じることになるからです。第二部公理五によって僕たちは神の属性を認識するとすれば,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性しか認識できないので,このふたつの属性の間でしか説明することが困難なのですが,神が延長の属性として働く力と等しい思惟する力が思惟の属性から発生するので,延長の属性における原因と結果の秩序と連結は,思惟の属性におけるそれと同一になります。したがって,物体Yから物体Xが生じるということが延長の属性の働く力から生じるなら,物体Yの観念から物体Xの観念が発生することが思惟の属性の思惟する力として発生するのです。このためにXとXの観念,あるいはYとYの観念の間には因果関係が存在しないにも関わらず,Xの原因がYであるならXの観念の原因はYの観念であり,逆にXの観念の原因がYの観念であるなら,Xの原因はYであるということになります。これがいわゆる平行論の基本原理であるといえるでしょう。
 この基本原理が,観念の原因という論点に,逆方向から作用していることは明白でしょう。平行論というのは,物体corpusの原因と結果の秩序と連結は物体の観念の原因と結果の秩序の連結と同一であるということもいっているのであり,これはそのまま物体の観念の原因は物体ではないし,物体の原因はその物体の観念ではないということを意味するからです。そしてこれがもうひとつの論点である,観念の真理性とも関係するのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする