スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

香港国際競走&有限知性の観念

2018-04-30 18:53:47 | 海外競馬
 日本時間で昨日の夕方に開催された香港のシャティン競馬場でのチャンピオンズデー。2つのレースに3頭の日本馬が遠征しました。
 チェアマンズスプリントプライズGⅠ芝1200m。
 ファインニードルはやや出負けするような発馬。すぐに追い上げていき5番手のインに収まりました。前の3頭が4番手以下を離していくレースでそのままインを回って直線に。やや外に持ち出されて残り300mくらいから追われましたが前に迫る脚はなく勝ち馬から4馬身差の4着。
 発馬は少し残念でしたが,離していった3頭のうちの1頭が優勝,優勝争いをした残る2頭は後ろから差してきた馬で,その3頭からは3馬身以上の差が開いての4着でしたから,どちらにせよ優勝争いに加わるのは難しかったでしょう。騎手は巧みに乗ったのではないかと思います。
 クイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。
 ダンビュライトは発走後は逃げ馬に絡んでいくような形で4分の3馬身差くらいの2番手を追走。1馬身差で勝ち馬が追走しそこから4分の3馬身差くらいにアルアイン。3コーナーを回ると前の2頭,3番手の2頭はほぼ横並び。ダンビュライトは逃げ馬を潰すことはできましたが自身も一杯となり勝ち馬から9馬身半差の7着。アルアインは止まったわけではありませんが伸び脚も欠き,流れ込むような形で6馬身半差の5着でした。
 このレースは逃げ馬が有力視されていて,ダンビュライトは楽に逃げさせまいというレースをしました。ペースは遅かったのですが,競り合った分の消耗が大きかったのでしょう。アルアインは現地での調教でかなり駄々をこねていたようで,遠征自体が向かなかったのが大きな敗因となったように思います。

 観念ideaが単に人間の精神mens humanaのような有限な知性intellectusとだけ関連付けられる場合は,異なった保証の方法が求められます。なぜなら観念がたとえばある人間の知性の一部を構成しているとみられる限りにおいては,それが十全adaequatumであるとは限らず,混乱した観念idea inadaequataである場合もあるからです。
                                
 第一部定理一五により,すべてのものは神なしにはあることも考えることもできないnihil sine Deo esse, neque concipi potest,したがってどのような観念であってもそれは神なしにあることも考えることもできないので,本来的にはこれは次のような仕方で保証が求められなければなりません。それは,第二部定理一一系によって,人間の精神は神の無限知性の一部であるということを第一の論拠にする方法です。このことによって,人間の精神というのが神の無限知性intellectus infinitusが存在しなければあることも考えることもできないものであることが明白になっているからです。
 この系Corollariumの具体的な意味は,もしある人間の精神の本性naturaを構成する限りで神のうちにXの観念があるといわれるなら,その人間の精神のうちにはXの観念があり,その観念はその人間の精神において十全であるか混乱しているかを問われず,その限りにおいて十全であるならその人間の精神において十全であり,その人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで十全であるといわれるならその人間の精神においては混乱しているということです。しかるにその人間の精神の本性だけを構成していようと,ほかのものの観念も有する限りであろうと,それが無限知性の一部であるということに変わりはなく,無限知性のうちでは十全です。ある人間の精神において十全であるか否かはその人間の精神とどう関連付けられているかにのみ関わっているのであり,無限知性の全体と関わっているわけではないからです。
 おそらくスピノザが第二部定理三六でいいたかったのはそういうことで,それがある人間の精神のうちで十全であろうと混乱していようと,同一の必然性necessitasで生じているのです。そして無限知性というのは思惟の属性Cogitationis attributumから第一部定理二一の様式で生じる直接無限様態です。これらを総合すれば,確かに観念の十全性は担保されているでしょう。
コメント
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