スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

自然権の拡張&書簡四十八の二

2015-12-19 19:15:22 | 哲学
 ライオンの自然権を考えることにより,スピノザの哲学あるいは政治学において,自然権の発生がどう考察されているか分かりました。ところで,自然権jus naturaleそれ自体が,現実的に存在する事物がなし得ることであるなら,自然権は実は名目上の権利とか,事物が生まれながらに付与されている不変の権利であったりはしないことになります。スピノザが考える自然権が,一般的に考えられている権利概念と著しく反するのは,この点にあると僕は考えています。
 ライオンAとライオンBが現実的に存在すると仮定します。どちらのライオンにも,シマウマを食う自然権が与えられています。そこでこの2頭が1頭のシマウマを巡って争いを起こし,結果的にAがシマウマを食うことになったとします。このとき,Bの自然権はAによって侵害されたことになります。正義justitiaとか不正injustitiaはここから発生してくるというのがスピノザの考え方ですが,ここではこのことは置いておきましょう。
 上述の事態は,2頭のライオンが1頭のシマウマを巡って争いを起こすがゆえに生じています。そこで2頭のライオンが争いを起こさず,協力して1頭のシマウマを襲って食べると仮定します。このとき,各々のライオンには1頭のシマウマを食う自然権が存在したと考える限りにおいて,双方の自然権が侵害されていると考えることはできます。仮定では協力することになっていますので,侵害されているというより,自然権を他方に譲渡しているというのが正確な理解の仕方かもしれません。
 一方,2頭が協力することによって,シマウマを捕えることが1頭で捕えるより容易になっているとすれば,これは双方の自然権が拡大しているという意味になります。なぜなら,なし得ることが自然権なら,1頭では容易になし得なかったことがもう1頭との協力でなし得るようになったなら,それはなし得ることがその分だけ増加したという意味だからです。
 こうしたことが現実的に存在する事物の自然権のすべてに妥当します。なのでたとえば人間は,単独の自然権の一部を他に譲渡しても,全体としては自然権が拡張するという場合もあることになるのです。

 イエレスJarig Jellesの著作へのリューウェルツJan Rieuwertszによる序文の中に,著者であるイエレスは都市の外に住む友人に原稿段階の本を送り,それを読んだ友人は,書き改めるべき点を発見しなかったという書簡をイエレスに送ったという主旨の記述があるそうです。
                                  
 ここでリューウェルツが友人といっているのがスピノザであることは断定して間違いないものと思います。それでこの部分も現行の『スピノザ往復書簡集Epistolae』の書簡四十八の二に含まれることになりました。畠中はその部分の訳注で,これについてはフランス人学者のベールPierre Bayleが報告しているという主旨の記述をしています。これはそのベールによる『批判的歴史辞典Dictionaire Historique et Critique』という大著の中に示されているものです。この著書のスピノザに関係する部分は『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』に訳出されていますから,当該部分も読むことができます。そしてそれを読めば分かることですが,こちらの著作は1702年に出版されたものであり,ベールがこの報告の典拠としているのはリューウェルツによる序文です。つまりベールは『一般的キリスト教信仰告白』を読んだ上で,この書簡について言及したのです。ともすると畠中の書き方はベール自身がスピノザがイエレスに宛てた手紙自体を読んだと解されかねないと僕は思うのですが,事実はそうではありません。
 『スピノザ往復書簡集』の訳者の畠中と『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺がそれぞれ指摘しているように,ハルマンがリューウェルツゾーンに見せてもらった手紙と,リューウェルツが序文で記述し,それを読んだベールが報告している手紙は,同一の手紙であるとは考えられません。一方で論旨に矛盾があることを指摘しておきながら,他方で書き改めるべき点が何もないというのは著しい矛盾を含んでいるからです。事実はおそらく両者が示しているように,まずイエレスは原稿を送り,それに対してハルマンが読んだ書簡をスピノザが送りました。イエレスはそれを読んで書き直し,改めてスピノザの講評を求めたところ,スピノザは改める点がないという書簡を送ったのです。つまり書簡四十八の二は,二通の別の手紙から構成されていると僕は考えます。
コメント
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