スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒュームの観点&憤慨と高慢

2018-04-05 19:19:45 | 哲学
 スピノザは「理性の導き」によって人は真理veritasを知ると規定しています。僕は「理性の導き」によってXの混乱した観念idea inadaequataがXの十全な観念idea adaequataになるということには疑問を抱いていますが,そのことは別に論じます。今はスピノザは第二種の認識cognitio secundi generisとは理性ratioによる認識であるといっているということだけを念頭に置いておいて下さい。
                                   
 『スピノザ―ナ15号』の矢嶋直規の論文によれば,ヒュームDavid Humeはそれに異を唱え,慣習が民衆によって幅広く共有されるようになると,それは真verumになると主張したとされています。つまり第一種の認識cognitio primi generisが虚偽falsitasであるという点ではヒュームもスピノザに同調しますが,たとえ第一種の認識であっても,それが多数の人びとに共有されるなら,それは第二種の認識になるとヒュームは主張していたことになります。
 なぜヒュームがそのように主張したのかということは,矢嶋の論文を読む限り,僕には何となく理解できます。というのは矢嶋の論文から理解する限り,どうもヒュームにはある種の神学的観点があったように思えるからです。つまりヒュームには,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizやヤコービFriedrich Heinrich Jaobiと似たような観点から,スピノザを否定する動機があったように僕には思えるのです。そしてこの推測が正しいなら,ヒュームのような主張は,キリスト教を保護しようとする神学的な観点からとても好ましいものになります。
 スピノザはオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てた書簡七十八の中で,イエスの復活については寓意的に解するといっています。寓意的に解するというのは死んだイエスが生き返ったということは真理ではなかったと解するという意味です。ですがこれではキリスト教は宗教religioとしては成立しにくいでしょう。しかしもし民衆の多くがイエスの復活を寓意的なものとしてでなく解釈するのであれば,ヒュームの観点からはそれは第二種の認識になります。つまり真理となるのです。よってこれはキリスト教神学にとって有利な理論であるといえるでしょう。
 僕はヒュームの観点がこうして出てきたと強く主張するものではありません。ですがこの推定が絶対に誤っているとはいえないのではないかと思います。

 高慢superbiaがいかに排他的思想を強化する感情affectusであるかについては,不安metusについて検討したときに強調しておいたことですから,ここでは論じることを控えます。ただ,ひとつ付け加えておきたいことは,第三部定理二五第三部定理二六は,単に僕たちが愛する者のことを高く評価し,憎む者のことを低く評価する傾向があるconariということだけを意味するわけではないということです。第三部定理二五がいっているのは,愛する者を喜ばせるものを愛する者について肯定するということだけではなく,自分自身についてもそれを肯定するということが含まれているからです。したがって正確にいうなら,僕たちは愛する者のことを高く評価する傾向conatusを有しているのですが,そればかりではなく,自分自身についても高く評価する傾向も有しているのです。
 僕は第四部定理五七備考を援用した上で,もし憤慨している相手を低く評価しているならその人間は高慢であるといいました。ですが,自分自身について高く評価しているがゆえに,相対的に憤慨する相手のことを低く評価するというケースもあるわけです。その場合はその人間はすでに自己愛philautiaのために自分を高く評価していることになりますから,第三部諸感情の定義二八に示されている意味で高慢という感情に支配されていることになります。したがってここから理解できることは,高慢な人間ほど愛する者を悲しませるもののことを強く否定し,そのものが人間である場合はその人間に対して憤慨するということになります。あえていってしまえば,よく憤慨する人間とか度を越して憤慨する人間は,高慢な人間であると解して差し支えないのです。このように,一見しただけでは分かりにくいかもしれませんが,憤慨indignatioという感情と高慢という感情の間には,一定の関連性があるといっていいでしょう。
 スピノザが高慢という感情は狂気の一種であると断じている箇所は,第三部定理二六備考でした。つまり第三部定理二五と第三部定理二六を論証し終えた直後に,高慢は狂気の一種であるといっているのです。これは憤慨とは直接的には関係しませんが,これらの定理Propositioが高慢と関連しているとスピノザがみているのは明白です。
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