19歳。
なんと麗しい年齢だろう。
18歳とはたちのはざまの、えもいわれぬ解放感。
誰でも一生に一度経験する、19歳。
夕べの女子フィギュアの浅田真央、キム・ヨナ対決を見ながら、
同じ月に生まれたこのふたりが、一生に一度しかないこの19歳という年をこういう形で運命的に迎えたことになんだか打ち震えるような感動を覚えた。
19歳のころの私はどうだったっけ?
大学生活も2年目に入り、神戸での一人暮らしにも慣れて毎日が楽しくてたまらなかった。
毎日、授業のあとに向かう先は坂の上の道場。そこで竹刀を振り回していた日々。
戦いの場は、小さな日本のそれも全関西という米ツブのような舞台だ。
その同じ19歳で、ふたりは全世界の注目が一手に集まる中氷上で自分の“最高の”演技を求められていた。
そしてそれを見事にやってのけた。
久々にすごいものをたっぷり見させてもらった気がする。
日本ではふたりの対決はもうすっかりおなじみかもしれないが、私にとっては実は生でふたりの演技を見るのはこのオリンピックが初めてだった。
そういう意味では何の先入観も偏見もなく(もちろん日本人として浅田ひいきはあるけれど)、ふたりの演技だけに集中して楽しむことができた。
まったく違う戦略で戦った二人の演技は、まさに息づまる熱戦。
SPのときはひざがガクガク震えた私も、フリーにいたってはもう落ち着いていた。なるようにしかならないのだ。
どちらも完全燃焼してくれ、ただそれだけを祈っていた。
キム・ヨナの金メダルは、ある意味その価値があったとおもう。
彼女が試合後のインタビューで語った、「もうオリンピックという言葉を聞かなくてすむ」という言葉が、
いかに彼女の15歳から19歳の4年間が壮絶だったかを物語っている。
彼女はここで金をとるためにカナダに居を移し、カナダ人のブライアン・オーサーをコーチをつけ、メンタルトレーナー、フィジカルトレーナーという「チーム・キム・ヨナ」を作り上げて準備していた。
欧米のアスリートにはこういった「メンタル・トレーナー」が当たり前のようについている。
日本では「本人の精神力」「修練」ととかく個人の問題にしてしまいがちだが、こういう家族以外の精神面でのサポート役は実は大きく役立っている。
最も大きい功績は、ブライアンコーチだろう。
彼の戦略はとても冷静でぶれがなく、見事だった。
実は彼こそ22年前、男子フィギュアで最高難度だったトリプルアクセルを完璧にこなせ「ミスタートリプルアクセル」と呼ばれていた男。
88年、地元カナダで開催されたカルガリー五輪でカナダ国民からの金メダルへの期待を一身に受けていた“ミスタートリプルアクセル”は、フリーで2度のトリプルアクセルを計画していたがその1回を難度が低いトリプルフリップに変える安全策をとった。
ところが、金メダルを競い合っていたブライアン・ボイタノ(アメリカ)のほうが意外にも自分の得意技であるトリプルルッツを捨て、トリプルアクセルを果敢に2度試みた。
オーサーはわずか0.1点差で敗れ、前回のサラエボに続いて2度も金を逃した。
彼は今も「あの時のフリップジャンプが常に脳裏をよぎる」と話すという。
この「ブライアン対決」をよく知る北米のメディアは、いつしかキム・ヨナに彼をだぶらせて語るようになった。
今日の新聞で、ブライアン・オーサーのこんなインタビューがのっていた。(この時点ではまだ結果は出ていない)
「みんなが私に“ついにあなたは金メダルを手に入れるんですね?”と聞く。でもそのたびに私はこう答えるんだ。“いや、メダルは彼女が手に入れるものであって、これは彼女のオリンピックなんだ”ってね。
誰かからそう言われるたびに、私は背中から刺されたような気分になるし、これは彼女への侮辱でもある」
北米では、メディアをはじめ昔の仲間たちの多くも、この22年前の“悲劇の銀メダリスト”ブライアンの積年の思いをとげさせてあげたい、と願っていた。
キム・ヨナにというより、ブライアンに今こそ金メダルをやりたい・・・そういう人間の感情も勝利(点数)の一因だったかもしれない。
いずれにしてもすべては終わったことだ。
9月には浅田もヨナもはたちになり、また新たな日々が始まる。
なんと麗しい年齢だろう。
18歳とはたちのはざまの、えもいわれぬ解放感。
誰でも一生に一度経験する、19歳。
夕べの女子フィギュアの浅田真央、キム・ヨナ対決を見ながら、
同じ月に生まれたこのふたりが、一生に一度しかないこの19歳という年をこういう形で運命的に迎えたことになんだか打ち震えるような感動を覚えた。
19歳のころの私はどうだったっけ?
大学生活も2年目に入り、神戸での一人暮らしにも慣れて毎日が楽しくてたまらなかった。
毎日、授業のあとに向かう先は坂の上の道場。そこで竹刀を振り回していた日々。
戦いの場は、小さな日本のそれも全関西という米ツブのような舞台だ。
その同じ19歳で、ふたりは全世界の注目が一手に集まる中氷上で自分の“最高の”演技を求められていた。
そしてそれを見事にやってのけた。
久々にすごいものをたっぷり見させてもらった気がする。
日本ではふたりの対決はもうすっかりおなじみかもしれないが、私にとっては実は生でふたりの演技を見るのはこのオリンピックが初めてだった。
そういう意味では何の先入観も偏見もなく(もちろん日本人として浅田ひいきはあるけれど)、ふたりの演技だけに集中して楽しむことができた。
まったく違う戦略で戦った二人の演技は、まさに息づまる熱戦。
SPのときはひざがガクガク震えた私も、フリーにいたってはもう落ち着いていた。なるようにしかならないのだ。
どちらも完全燃焼してくれ、ただそれだけを祈っていた。
キム・ヨナの金メダルは、ある意味その価値があったとおもう。
彼女が試合後のインタビューで語った、「もうオリンピックという言葉を聞かなくてすむ」という言葉が、
いかに彼女の15歳から19歳の4年間が壮絶だったかを物語っている。
彼女はここで金をとるためにカナダに居を移し、カナダ人のブライアン・オーサーをコーチをつけ、メンタルトレーナー、フィジカルトレーナーという「チーム・キム・ヨナ」を作り上げて準備していた。
欧米のアスリートにはこういった「メンタル・トレーナー」が当たり前のようについている。
日本では「本人の精神力」「修練」ととかく個人の問題にしてしまいがちだが、こういう家族以外の精神面でのサポート役は実は大きく役立っている。
最も大きい功績は、ブライアンコーチだろう。
彼の戦略はとても冷静でぶれがなく、見事だった。
実は彼こそ22年前、男子フィギュアで最高難度だったトリプルアクセルを完璧にこなせ「ミスタートリプルアクセル」と呼ばれていた男。
88年、地元カナダで開催されたカルガリー五輪でカナダ国民からの金メダルへの期待を一身に受けていた“ミスタートリプルアクセル”は、フリーで2度のトリプルアクセルを計画していたがその1回を難度が低いトリプルフリップに変える安全策をとった。
ところが、金メダルを競い合っていたブライアン・ボイタノ(アメリカ)のほうが意外にも自分の得意技であるトリプルルッツを捨て、トリプルアクセルを果敢に2度試みた。
オーサーはわずか0.1点差で敗れ、前回のサラエボに続いて2度も金を逃した。
彼は今も「あの時のフリップジャンプが常に脳裏をよぎる」と話すという。
この「ブライアン対決」をよく知る北米のメディアは、いつしかキム・ヨナに彼をだぶらせて語るようになった。
今日の新聞で、ブライアン・オーサーのこんなインタビューがのっていた。(この時点ではまだ結果は出ていない)
「みんなが私に“ついにあなたは金メダルを手に入れるんですね?”と聞く。でもそのたびに私はこう答えるんだ。“いや、メダルは彼女が手に入れるものであって、これは彼女のオリンピックなんだ”ってね。
誰かからそう言われるたびに、私は背中から刺されたような気分になるし、これは彼女への侮辱でもある」
北米では、メディアをはじめ昔の仲間たちの多くも、この22年前の“悲劇の銀メダリスト”ブライアンの積年の思いをとげさせてあげたい、と願っていた。
キム・ヨナにというより、ブライアンに今こそ金メダルをやりたい・・・そういう人間の感情も勝利(点数)の一因だったかもしれない。
いずれにしてもすべては終わったことだ。
9月には浅田もヨナもはたちになり、また新たな日々が始まる。
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