9・11テロから今年で丸9年。
私が会社を辞めてアメリカで一人暮らしを始めたのが、あの事件の起こる3週間前だった。
皮肉なことに「9・11から○年」と聞くたびに、私のアメリカ生活も○年(マイナス日本に帰っていた2年間)になるのか、と思い起こす。
あの頃は、アメリカにおいて宗教がどんなに恐ろしい力を持っているのか知る由もなかったが、
今ではそれを実感する出来事が日々起こっている。
グラウンドゼロから数ブロックという場所にイスラム教のモスクが建設される計画をめぐって、今、アメリカの世論は大きく揺れている。
「この国はさまざまな人種と彼らの宗教を容認することから出発している」と、モスク建設寛容な立場をとる政府(オバマ大統領)をはじめとする容認派と、「何もここに建てる必要はない」とする反対派の間で大論争が繰り広げられている。
テロ以来、キリスト教(アメリカ人) VS イスラム教の戦いはますます過敏かつ過激になっているように思う。
極端な人々が極端な行動に出て、それが平穏無事に暮らしている人々の生活をおびやかす。
そもそもアメリカは、もはや“建国の理念”を保てないところにきているんじゃないか、と私は常々思っている。
多くのものをいっぺんに受け入れすぎたために、内側からじわじわと崩壊していっているような気がするのだ。
★ ★
そんなことを考えていたつい最近、面白い経験をした。
GOROと近所をお散歩していたときの話。
ご近所に住むあるアメリカ人のご婦人とふと道端で犬談義が始まった。
彼女も去年の同じ時期に仔犬(マルチーズ)を買っていたので、時々顔を合わせることはあったがちゃんとお話するのはこれがはじめてだった。
彼女は昔ミッショナリーとしてハワイ島のコナに15年ほど住んでいたことがあるらしく、
私たちがコナで結婚式を挙げたと聞くと急に大興奮して、あれやこれやと私たちのことを聞き始めた。
馴れ初めがどうとか、国籍がどうのこうの・・・。
「私にもドイツ人の友人がいるの。彼の奥さんは韓国人なのよ。今度うちにきてちょうだい。是非紹介するわ。一緒にBBQでもしましょうよ!」
なんだか彼女はのりのりだ。
そしてふと、あるタイミングで彼女はいきなりこう聞いてきた。
「Do you believe in God?(あなたは神様を信じる?)」
おお、きたきた。
こういうときは私はきっぱりと答えるように決めている。
「No, I don't.(いいえ。)」
アメリカでこう聞かれた場合、「神」とは100%「イエス・キリスト」という意味だし、クリスチャンでもない私の答えはノーに決まっている。
ここをいいかげんに答えると、あとあと面倒くさいことになる。
「Why?」
「なぜって・・(笑)私はクリスチャンじゃないから。それにそういう風にも育っていないしね。厳密に言うと、私にとっての神はアブラハムの神じゃなくて、多分もっとスピリチュアルなもの、内にあるものやから」
「どういうことかしら?」
「日本には古来から108の神様がいるという信仰があってね」
「まぁ~!神道ね」
「そうそう。日本人の私はそれをベースにしていているうえに、仏教の教えも取り入れたりしているわけ。でもこれらはいわゆる“宗教”とはちがうでしょ?だから私には宗教はないってことやねん」
「あなたのご主人は?」
「Atheist(無神論者)よ(爆)」
「夫婦そろってAtheistなのね!」
何かとんでもない人種を見たという彼女の顔を今でも思い出す。
この瞬間、「ああ、この人はもう私を友達のリストから消したな」と思ったのだった。
でも彼女はまだ「神道」という言葉を知っている。つまり、他の宗教や考えのことも多少は勉強しているという意味では、いわゆる生まれたときからキリスト教しか知らず、他の宗教に排他的な態度をとるnon-intelligentなよくいるアメリカ人(おとなりのPeggy夫婦がその典型)ではないということは確かだろう。
そのあとも会話はまぁ平和に続いた。
「ところであなたおいくつなの?」
アメリカで直接トシを聞かれたのはひさしぶりだ。私はトシを隠したことは一切ない。
「ですよ」
「お子さんは?」
「いませんけど」
「欲しくはないの?」(なんか、いや~な展開になってきたぞ)
「いやまぁ、機会がございましたら」
「今、ここで祈ってあげてもいいかしら?」
「へっ?」
「私の神様に、お祈りしてあげるわ」
「“私の”って、個人に神様がいるんですか?」←なんとあほな質問・・
「や~ね~。“イエス”のことよ。あなたイエス・キリストは知ってるわよね?」
「あ、そっか」
「(真剣な顔で)だから、今ここでお祈りしてあげるけど、いいかしら?」
「何分くらいかかります?(←帰りたい)」
「1~2分よ」
「ほんじゃ、どうぞ」(別に拒絶する理由はないしやりたいなら勝手にやらせてあげとこ)
そして、彼女は私のおなかに手を当ててむにゃむにゃとつぶやき始めた。
「おお~私の偉大なイエスさまよ。このSHOKOとPEDROの間にどうぞどうぞお子をお授けください。
PEDROのとSHOKOのが無事に出会い、あれやこれやうんたらかんたら・・・・」
真剣な顔であまりにもアホなことをぶつぶつ言うので、横で笑いをこらえてひくひくしている私。
それよりもご近所さんに見られまいかとはらはらし通し。
「終わったわよ」
「ほんで、これからどうなるの?」
「9ヵ月後にあなたはママよ」
「ワッハッハ~!バンザ~イ、バンザ~イ!」(←やけくその万歳三唱)
あんた、これでできたら私はサンタマリアやわ(爆)
もちろんこの話は、夕食の格好のネタになったのはいうまでもない。
(※今日の反論)
でもPちゃんを正真正銘のAtheistと呼ぶなら、私はそれとは違う。
私は宗教に賛成でも反対でもなく「無関心」なだけで、Pちゃんのように「諸悪の根源」とは思っていないからだ。
日本のように極端に走るクリスチャンがいない場所で育った私と、極端なものを見て辟易としてきたPちゃんとは、
そもそも宗教に関する考え方がちがうのも当然といえば当然かもしれない。
私が会社を辞めてアメリカで一人暮らしを始めたのが、あの事件の起こる3週間前だった。
皮肉なことに「9・11から○年」と聞くたびに、私のアメリカ生活も○年(マイナス日本に帰っていた2年間)になるのか、と思い起こす。
あの頃は、アメリカにおいて宗教がどんなに恐ろしい力を持っているのか知る由もなかったが、
今ではそれを実感する出来事が日々起こっている。
グラウンドゼロから数ブロックという場所にイスラム教のモスクが建設される計画をめぐって、今、アメリカの世論は大きく揺れている。
「この国はさまざまな人種と彼らの宗教を容認することから出発している」と、モスク建設寛容な立場をとる政府(オバマ大統領)をはじめとする容認派と、「何もここに建てる必要はない」とする反対派の間で大論争が繰り広げられている。
テロ以来、キリスト教(アメリカ人) VS イスラム教の戦いはますます過敏かつ過激になっているように思う。
極端な人々が極端な行動に出て、それが平穏無事に暮らしている人々の生活をおびやかす。
そもそもアメリカは、もはや“建国の理念”を保てないところにきているんじゃないか、と私は常々思っている。
多くのものをいっぺんに受け入れすぎたために、内側からじわじわと崩壊していっているような気がするのだ。
★ ★
そんなことを考えていたつい最近、面白い経験をした。
GOROと近所をお散歩していたときの話。
ご近所に住むあるアメリカ人のご婦人とふと道端で犬談義が始まった。
彼女も去年の同じ時期に仔犬(マルチーズ)を買っていたので、時々顔を合わせることはあったがちゃんとお話するのはこれがはじめてだった。
彼女は昔ミッショナリーとしてハワイ島のコナに15年ほど住んでいたことがあるらしく、
私たちがコナで結婚式を挙げたと聞くと急に大興奮して、あれやこれやと私たちのことを聞き始めた。
馴れ初めがどうとか、国籍がどうのこうの・・・。
「私にもドイツ人の友人がいるの。彼の奥さんは韓国人なのよ。今度うちにきてちょうだい。是非紹介するわ。一緒にBBQでもしましょうよ!」
なんだか彼女はのりのりだ。
そしてふと、あるタイミングで彼女はいきなりこう聞いてきた。
「Do you believe in God?(あなたは神様を信じる?)」
おお、きたきた。
こういうときは私はきっぱりと答えるように決めている。
「No, I don't.(いいえ。)」
アメリカでこう聞かれた場合、「神」とは100%「イエス・キリスト」という意味だし、クリスチャンでもない私の答えはノーに決まっている。
ここをいいかげんに答えると、あとあと面倒くさいことになる。
「Why?」
「なぜって・・(笑)私はクリスチャンじゃないから。それにそういう風にも育っていないしね。厳密に言うと、私にとっての神はアブラハムの神じゃなくて、多分もっとスピリチュアルなもの、内にあるものやから」
「どういうことかしら?」
「日本には古来から108の神様がいるという信仰があってね」
「まぁ~!神道ね」
「そうそう。日本人の私はそれをベースにしていているうえに、仏教の教えも取り入れたりしているわけ。でもこれらはいわゆる“宗教”とはちがうでしょ?だから私には宗教はないってことやねん」
「あなたのご主人は?」
「Atheist(無神論者)よ(爆)」
「夫婦そろってAtheistなのね!」
何かとんでもない人種を見たという彼女の顔を今でも思い出す。
この瞬間、「ああ、この人はもう私を友達のリストから消したな」と思ったのだった。
でも彼女はまだ「神道」という言葉を知っている。つまり、他の宗教や考えのことも多少は勉強しているという意味では、いわゆる生まれたときからキリスト教しか知らず、他の宗教に排他的な態度をとるnon-intelligentなよくいるアメリカ人(おとなりのPeggy夫婦がその典型)ではないということは確かだろう。
そのあとも会話はまぁ平和に続いた。
「ところであなたおいくつなの?」
アメリカで直接トシを聞かれたのはひさしぶりだ。私はトシを隠したことは一切ない。
「ですよ」
「お子さんは?」
「いませんけど」
「欲しくはないの?」(なんか、いや~な展開になってきたぞ)
「いやまぁ、機会がございましたら」
「今、ここで祈ってあげてもいいかしら?」
「へっ?」
「私の神様に、お祈りしてあげるわ」
「“私の”って、個人に神様がいるんですか?」←なんとあほな質問・・
「や~ね~。“イエス”のことよ。あなたイエス・キリストは知ってるわよね?」
「あ、そっか」
「(真剣な顔で)だから、今ここでお祈りしてあげるけど、いいかしら?」
「何分くらいかかります?(←帰りたい)」
「1~2分よ」
「ほんじゃ、どうぞ」(別に拒絶する理由はないしやりたいなら勝手にやらせてあげとこ)
そして、彼女は私のおなかに手を当ててむにゃむにゃとつぶやき始めた。
「おお~私の偉大なイエスさまよ。このSHOKOとPEDROの間にどうぞどうぞお子をお授けください。
PEDROのとSHOKOのが無事に出会い、あれやこれやうんたらかんたら・・・・」
真剣な顔であまりにもアホなことをぶつぶつ言うので、横で笑いをこらえてひくひくしている私。
それよりもご近所さんに見られまいかとはらはらし通し。
「終わったわよ」
「ほんで、これからどうなるの?」
「9ヵ月後にあなたはママよ」
「ワッハッハ~!バンザ~イ、バンザ~イ!」(←やけくその万歳三唱)
あんた、これでできたら私はサンタマリアやわ(爆)
もちろんこの話は、夕食の格好のネタになったのはいうまでもない。
(※今日の反論)
でもPちゃんを正真正銘のAtheistと呼ぶなら、私はそれとは違う。
私は宗教に賛成でも反対でもなく「無関心」なだけで、Pちゃんのように「諸悪の根源」とは思っていないからだ。
日本のように極端に走るクリスチャンがいない場所で育った私と、極端なものを見て辟易としてきたPちゃんとは、
そもそも宗教に関する考え方がちがうのも当然といえば当然かもしれない。
「イスラム教には罪はない」
「キリスト教は右の頬を打たれたら、左の頬を打たせよ?、、とか言っているのに、ちょっと料簡狭くない?」
って感じですが、、日本にいると切迫した感じがないので、理屈だけで話していると思いますが、、
外国の人と話す時は宗教と政治の話はしないように、、と聞いた事があるけど、向こうから言ってきたら仕方ないですね、、
しかし、、やはりキリスト教の教えがだんだんゆがんできていない?
実際はもっとシンプルでもっと寛大なものじゃないの?
私たちが考えるキリスト教の教えは、確かに「隣人を愛せよ」でしたよね。でもブッシュが戦争を始めたときからますます、宗教が戦争の道具になってしまった。「聖戦」なんて言葉が平気で使われてるし。でもまあ、人類の歴史で戦争にはたいがい宗教がからんでいるからこれはもう人間の性なのかも。