津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■書籍終活・ごみだし三回目

2022-09-28 09:17:20 | 徒然

 昨日の朝はいわゆる「線状降水帯」が通過したせいか、ものすごい雨がふって、直ぐ近くの水無川の水位がびっくりするほど上昇して、これが後一時間も続くと溢水するのではなかとさえ思えた。
ごみ集積所は川の側道にあるから少々心配したが、その後線状降水帯はそのままずれたようで、その後の雨は穏やかになった。

 今日はお天気ではないが雨の心配もなく「紙ごみ」の収集日、そこで終活書籍を60冊ほど処分することにした。
これで1~3回合計310冊ほどを処分完了。
押し入れから引っ張り出したり、本棚から選び出したりした本が、部屋の片隅を占領していたものが消え去った。
処分予定の120~130冊ばかりは割と新しいので、惣領を負担してくれる買い取り業者に送ろうかと思っている。

お金の問題ではなく、どなたかに安く読んでいただければこれに越したことはない。これが済むと一段落となる。
都合500冊くらいだろうと予想していたが少々少なかったようだ。
もう一箱、生業の建築関係の本50冊程、これは以前から大きなダンボールに入ったままだが、これも専門の店を見付て送ろうと思う。

 最近は本から離れて資料の整理、これは一々内容物を確かめて、重複していたり不必要なものを処分、これがすでにデパートの袋三袋程になりこれも今日処分、これがまだまだ続く。
捨てがたい古い新聞、各地のいろんな地図などが顔を出し、これを入れる大きな袋を作って収めたりしている。
ようやく涼しくなってきたというのに、汗ばむほどの作業量である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お城下に知らない名前の町があった

2022-09-28 06:46:35 | 熊本

 明治に至ると長く親しんできた手永制度は廃止せられ、街区の表示は「大区小区」制となった。
時折このことについてお尋ねがある。熊本県下は16の大区に分けられた。
現熊本市に置いては、第一大区は「飽田郡・熊本」で8小区、第二大区は「飽田郡・合志郡」は10小区、第三大区は「飽田郡・託麻郡」は10小区と言った感じである。
例えば板屋町などは「第一大区一小区〇〇」といった具合に番地に当たる数字が振られて町名は表示されなくなった。
これが評判が悪かったのであろう、明治11年(1878)には新たに郡区町村編制法が制定され、「大区小区制」の存在はわずかな期間である。

 その地名を眺めていたら、私が知らない町名に遭遇した。「瓶屋町」だ。「びんや」だろうと思っていろいろググっている中で「新町地区城下町旧町名板一覧」というサイトに行き着き、この中の「19」に「かめやまち」とあった。
処がこの図ではよく場所の確認が出来ない。さらに検索していたら、「新町地区城下町旧町名板位置図」があり、新町4丁目の明八橋近くであることが判った。
旧藩時代の新三丁目懸りの勢屯に面し、「御府中小路町々産物附」によると、瀬戸物屋があり壷瓶・陶皿・茶碗・鉢などを商っていたらしい。

 「明治初期・熊本町名」図には記載されていない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御侍帳・家紋から考える(44)

2022-09-28 06:44:03 | 家紋

                                 

                 新・肥後細川藩侍帳【ま】の部

牧 九郎大夫は、【丹後以来】(南東38-11)牧 市太家の7代目・兵九郎(九郎大夫・九郎左衛門)。家紋は「黒丸(餅)に鍵紋」  

牧 八右衛門は、(南東37-22)牧 伴鴎家の6代目。家紋不詳。  

牧 角弥は、(南東37-9)牧 杢左衛門家の7代目。家紋は「隅立角に隅立平角紋」  
牧 友次郎は、(南東37-10)牧 文四郎家の4代目。名は安幸、幼より学を好みまた武技、兵学に達す。時習館授讀となる。家紋同上  

牧柴門次は、(南東38-12)牧柴謙次郎家の4代目。家紋は「丸に三つ盛日向亀甲」  

牧野平助は、(南東37-11)牧野安之進家の7代目。家紋は「左一つ巴紋」「丸に蔓■■」  

真下源太兵衛は、【丹後以来】(南東37-3)真下敬次家の8代目・亀之允(源太兵衛)。家紋は「隅立角に十字」?

真野善右衛門は、(南東37-2)真野冨弥家の5代目か?家紋は「杏葉紋」 

町野玄潜は、御医師(南東56-22 医)町野玄内家の6代目。家紋は「違い鷹の羽紋」「己文字紋」?   

前田善兵衛は、(南東37-6)前田善九郎家の7代目、御用人 七百石、内五百五十石御足高 御近習御次組脇 
          文政三年十月(御次着座)~文政五年九月 用人
          文政五年九月~文政七年九月(病死)中小姓頭  家紋は不知  

前原熊吉は、(南東37-20)前原十郎左衛門家の4代目。家紋は「蛇の目紋」  

松田喜平は、(南東36-15)松田太郎作家の6代目。家紋は「隅入り平角に並び矢筈紋」
  
松田吉内は、(南東36-14)(南東65-120 *)松田吉郎家の5代目。家紋表示なし。  

益田尉右衛門は、(南西37-24)益田文蔵家の2代目か?家紋は「丸に横三つ丸」

牧田角太郎は、(南東37-21)牧田直之助家の4代目。家紋は表示なし。

               新・肥後細川藩侍帳【ふ】の部

藤掛忠右衛門は、(南東39-19)藤懸(掛)傳之進家。代々忠右衛門名乗りの人が多く人物の特定不可。
      初代・惣左衛門(蔵人・永勝)室は冷泉為将長女。
      家紋は「   」。今一つの「丸に三文字紋」は尾張織田氏庶流の紋である。

藤崎作右衛門は、(南東39-1)藤崎作右衛門 家の9代目・大蔵(養子 作右衛門)千百石。
      家紋は「丸に鴈金紋」
藤崎多右衛門は、同上分家、(南東39-2)藤崎弥右衛門家。多ではなく太右衛門名乗りの人が多く人物の特定が出来ない。
      家紋は同上

                                                      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする