津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後文献叢書第二巻のはしょりすぎな編集(ニ・了)

2022-05-02 16:24:38 | 書籍・読書

 続撰清正記・巻第五目録
   第一・左馬助幸明順天城守事
   第二・大明梅栢蔚山の城へおしつむる事
   第三・秀吉公御他界朝鮮在陣衆歸朝之事
   第四・朝鮮在陣衆と石田治部少輔不和之事
   第五・小西行長朝鮮陣中の悪事在陣衆中より秀頼公へ申上らるゝ事
   第六・石田治部少輔謀反之事
    續・清正内儀人質として大阪に置けるを盗出す事
    續・石田治部少輔と合戰におよふよし家康公より飛脚きたる事    
    續・家康公への使者四國にて自害いたす事
   第七・清正宇土城せめらるゝ事
    續・宇土の城責候時石の瀬の町破たる事
    續・三宅角左衛門南條伯耆と鑓合の事
    續・宇土城より出たる忍の飛脚生捕事
    續・相田權六郎小川にて働の事
    續・宇土城より出たる夜討を突歸す事
    續・田中兵助手疵あらため給ふ事
    續・宇土城近所の沼田に懼たる事
    續・宇土八代の城請取事
   第八・清正西國筋方々はたらきの事
    續・立花左近将監後飛騨守と云内小野和泉鍋島加賀守と合戰いたす事立花三太夫討死の事
    續・柳川久留目の兩城請取事
    續・立花左近将監柳川下城の時清正陣屋に火事出來の時の事

 続撰清正記・巻第六目録
   第一・清正如水兩將薩州へ働として出勢ある事
   第二・清正家康公へ御目見えの事
    續・秀吉公他界の後利家公北國へ歸城の時家康公息男を證人に取て被行事
    續・肥後國清正拝領の部の知行高の事
    續・京都本國(圀)寺において萬部の經讀誦の事
   第三・名護屋普請に清正歌舞妓興行の事
    續・尾州名護屋の普請の時大石引し事
    續・與次兵衛歌舞妓の座にて足輕喧嘩いたす事
    續・熱田大明神の西の門造營の事
    續・八幡の國と云歌舞妓の女肥後へ下り候事
    續・誦に狸の腹鼓うちたる事
   第四・秀頼公家康公御對面の事
    續・家康公と秀頼公御對面の時御進物の事
    續・秀頼公大阪へ御歸の時伏見において御膳上られたる事
    續・熊本在城の時南東の作法其外常の仕置共の事
    續・常に定めおかれたる軍法の事
    續・清正鎧並武具ともの事
    續・軍中七備の圖の事
    續・旅行の時の事
    續・上野國くつといふ所にて馬の靈になり所の庄屋をとりころす事
    續・信州松本にて(石川)玄蕃殿より胡馬被申請候事
    續・稲田(本文では留)一夢鐵炮の弟子に家來者共なる事
    續・美須彌次右衛門奉公いたす事
    續・家中への知行割の事

 続撰清正記・巻第七目録
   第一・家中へ申出さるゝ七ヶ條の事
    續・七ヶ條の法度相達の事
   第二・清正逝去の事家來中へ遺言の事
    續・清正病に付て駿河へ使者さしこしたる事
    續・清正逝去の事
    續・遺言とも相違の證據の事
    續・清正遺言に軍神になり給ふと宣ふ事相違の事
    續・追腹きりたる者共の様子の事
    續・逝去の時家來の者駿河へ伺公いたす事
    續・清正遺物ともの事
    續・家來の者共の名書立候事
    續・清正跡寅藤拝領いたし下國仕たる事家老とも定り起請文書候事
    續・清正葬禮の事廟所の事
    續・本妙寺法談の事

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■私が抱く三つの疑問と私見

2022-05-02 07:05:33 | 些事奏論

 20年ばかりどっぽりと熊本の歴史を勉強する中で、どうしても判らない三つの疑問がある。
年代順に並べると次のようになる。

   1、「茶臼山ト隈本之図」における、四木社・神田原の位置。
   2、熊本城二様の石垣(細川時代と言われる)の上に加藤時代に作られた本丸御殿がある事。
   3、森鴎外著「興津弥五右衛門の遺書」にある「一木三銘の香木」及び「横田清兵衛殺害の年次」の間違い

 それぞれいろんな本や資料を読んでの私なりの結論は次の通りである。

   1、書き込まれた場所の間違い
     ・出田氏の千葉城以前の状況を描いたと思われるこの茶臼山の状況では、白川の流れはこのようなもので
      あったらしい。清正の熊本城築城の時期までの140~150年の間に白川は大蛇行したという事になる。
      四木社があった場所は、現在の花畑公園だとされ四本の木の一本がここに現存する。
      つまり、四木社や神田原は坪井川と白川の間に位置しており、大蛇行は四木社周辺を迂回して坪井川に
      合流し、竹之丸-桜馬場-隈本城(古城)の南面・現第一高校グランド部分を河岸としていたと考える。

   2、本丸御殿の完成に合わせて加藤時代までに継ぎ足された
     ・熊本城超絶再現記の著者で、熊本城ジオラマを作成された島充氏もこの疑問に触れられており、原因と
      して四つ考えられるとされている。
      本丸御殿が加藤期に作られ、石垣が細川時代に継ぎ足されたとするならば、本丸御殿の一部は宙に浮い
      ていたことになる。そしてこの状態で石垣を積み足すことが可能であろうか?否としか言いようがない。
      本丸御殿から二様の石垣の隅部に在った三階櫓までは細川時代のものか。        

   3、「一木三銘」森鴎外が著作の為にベースとした「翁草」の間違い。
      「横田清兵衛殺害年次」事件が起きたとする寛永三年は間違い。寛永五年当時、清兵衛生存を伺わせる資料の発見

     ・一木三銘又は四銘については、種々の説が巷間流布されている。お香の団体などでも森鴎外の「興津弥五右衛
      の遺書」による記述に準じているが、これは「翁草」の引用であるから鴎外に罪はない。ただし翁草に於いて
      は松平不昧家に存在するお香については、虚説としているが、本当は存在しているようだ。
      横田清兵衛殺害事件については、寛永五年以降の生存が伺える資料を、「福岡県史・近世史料‐細川小倉藩」か
      ら発見した。
      歴史小説の大家・鴎外の小説がもたらす影響は、ここに記されていることを真実として語っていると思わせる
      が、私たちは小説は虚構のものであることを理解しておかなければならない。

 今後もこれら三件の疑問については、種々の史料を読み込んで調べていきたいと思うが、現況に於いての中間報告としておきたい。

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