津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ピアノと山法師

2019-07-23 17:42:18 | 俳句

                 ピアノ弾くは佳人か庭の山法師  津々

 私は「山法師」という木が大好きで、あちこち歩き廻わるなかであるお宅の庭に見事な枝ぶりの木を見つけた。
そして中からピアノの音が聞こえる。
弾いている人が男性なのか女性なのか、お年は幾つなのかもわからないまま、かってに佳人としてしまった。
この年になっての悔やみ事は、私はまったく楽器が扱えないことである。
何かできていれば楽しかったろうなとつくづく思い、人様のお宅でピアノの音などが聞こえると、なんと風雅な事かと感じ入ってしまう。
子供三人は幼かったころ、日曜日になると私がいろいろレコードをかけていたこともあって、中学・高校・大学と楽器に親しんでいる。
奥方も小さいときピアノの練習をしていたというから、私一人が「へのけ者」である。
最近は肺活量が落ちて、口笛も吹けないし歌を歌うこともままならない。
そんなことを思いながらの駄句である。お粗末さま・・・

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■天草島原の乱「細川家史料に残る沢彦右衛門か事」

2019-07-23 06:10:07 | 歴史

 昨日、 ■有馬一揆「証拠状」を読む を書いたが細川家史料はどのように記録していたのか気になって調べてみた。
昨日のブログではS氏と記したのは、沢彦右衛門のご子孫の事だが、その働きぶりはS氏所蔵の文書と大方合致している。
又、討ち死にするかもしれないからと、証拠人を推薦した尾藤金左衛門の見事な働きぶりと、死に至る有様も記されている。
これ等の人たちの働きが、「本丸一番昇り」をもたらしたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松井新太郎(興長)足軽を下知してしきりに鉄炮をうたせ、自身も石垣に取付一番乗の名乗、志水新之允・尾藤金左衛門等声々に詈(ののし)り登る、沢彦右衛門も 庄兵衛子 続て働を金左衛門見て、我々は討死せんも難計、家来浅川喜平次と申者証拠ニ立候へと申付候 喜平次其外数通之証拠状今ニ所持 、城中の矢石甚く、殊に千束荒兵部と名乗大の男の強力屏の上に現れ、十人持程の石を軽々と差上続け打に投かくる、味方大に損し開き靡く事前後三度也、是をも不厭新之允・金左衛門・熊谷忠右衛門等等進て石垣を上り、志水か家士一両人つゝく中に、赤尾五大夫鍬を以石をうけはり防くを、熊谷見事也と誉けれハ、出来申御覧候へと云て働く、熊谷一番に犬走に着、志水は鉄炮に中り候へ共浅手なれハ尚進て采拝をふり後軍をまねき、尾藤も同時に犬走に着ける時、件の大石ニふれて冑の鉢をしたゝかうたせ、朽葉色の大吹貫を指なから、屏下よりひしと押詰たる味方の頭上をこし、廿余間下なる谷底に落る、其余勢松井新太郎か差物に中り同しく落る、熊谷が家来驚き金左衛門様御討死と云を忠右衛門叱り付、狭間越にさり合に是も石に中り犬走より転ひ落ル、尾藤はやかて起上り大勢の味方を押分々々又石垣を上り、犬走に着とひとしく塀をこへんと腕木に取付所、屏越に突出す鑓を喉に受留、猶も其鑓にすかりてせり合候か、急所の深手耐かたく終に死を遂る、家人浅川弥平次かけ来り急にたすけ起し候へ共、甲斐なく死骸をいたき、沢村宇右衛門に創口を見せ、馬場三郎左衛門殿ニも披露して本営にかへり候

御船頭白井兵助もはたく出丸の石垣に着候か、やかて城内に入てかせき候、白井と一同に乗込候御船頭、手嶋茂大夫・佐川庄兵衛・高見善兵衛・渡部七郎左衛門・久間伝蔵・竹田忠左衛門・松田七郎兵衛・岡田茂兵衛・嶋田理右衛門・池部道意・田中作兵衛・山口吉兵衛等也、此内七郎左衛門・理右衛門・作兵衛は手創を被り候、町熊之助ハ乗込時石にて面をうたれ候へとも、猶も不厭相働、篠原清兵衛も乗込、手負なから首一ツ討取候、先に台使の命にて兵を揚よと有時、有吉家士葛西惣右衛門・同伊織・中松伝助・団六左衛門・荻野兵助・本郷縫殿・斎木喜太郎・木部清大夫・生地貞右衛門此者共は最初より先手にすゝミ塀岸に付居たるを、引上候へと、井上左門・中山羽右衛門を以示し遣す処、其比寄之手より乗込へき様子を見請候間、如何と何も見極る内に、本丸ニ火の手見へける故直に乗入り、氏家志摩・斎藤勘助・津田次郎左衛門なと一所に乗込候、古川市助も早ク攻入鑓を合弐人付伏候に、三人めの敵に鑓を切折れ候時、小性弐人かけ付敵を追散し候にまた余敵突かゝる、其鑓のうのくひを取せり合内に、小性壱刀斬れハ市助も抜合せ仕留候、夫より尚もすゝミ候処ニ鉄炮にて膝口をうたれ、小性弐人も手負候へ共、主人を引立退候也、長谷川七兵衛 後久兵衛 ・同兵四郎 後弥兵衛 ・同太郎助 後嶋之助 兄弟三人何も相働、立花手のかゝり口本丸の入隅にて 一ニ須戸口ニ而 七兵衛鑓を合弐人突伏、其身も五ヶ所手負、松野平兵衛ハ敵と相突にして創を被り、浪士奥田藤左衛門一所に在て同敵を突候へとも平兵衛首を取、沢田九右衛門ハ敵三人突留る、沢彦右衛門敵を突伏候に、残党側より不意に出、切付るをはつし候へは、肩に少創を得なから不透其敵を討取る、財津市郎左衛門進て鑓を合せんとする時、敵横相より長刀にて鑓を切折候ニ、其鑓の柄を直ニ投付透間なくつと入て抑へて首をかく、此早業ニ懼れ候や、余賊は奥に逃入候、村上市右衛門・堀田諸兵衛・入江三之允等よく働く、興長家士西垣太右衛門ハ護る所の長旗をすゝめ、本丸の東の海手の隅石垣の壊れ口より諸手一番に旗を入、小高き所に押立候、大村猪右衛門 掃部次男、此時歩御使番、後新知拝領、足軽頭被仰付、改源内 同所に在て賞美いたし候、寄之も無程乗入旗下に来り候へハ、田中三郎左衛門円居をもち来て同く立並ふ、此時風強く乳付の大旗竿ニまかれけるを、沢井善太夫走り寄て引ひらき台使の方に向候間、白地に紺の九曜の下に笹丸付たるか明かに見へ、茜に白き笹の丸の円居も立添候を、御両君・馬場氏も御覧候而、本丸ハ式部乗取たりと御喜悦被成、台使ニも被仰遣候処、はや是よりも見受候と御賞美有之、本丸の一番昇と被定候、沢村大学旗も続て立並へ前後を争ふ程に有之候と也

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■嘉永三年「諸扣」

2019-07-22 14:14:57 | オークション

        江戸時代 嘉永~安政 古文書 和本 切支丹宗門改 肥後藩 熊本藩 玉名 杉浦津直 蒲池太郎八

                   江戸時代 嘉永~安政 古文書 和本 切支丹宗門改 肥後藩 熊本藩 玉名 杉浦津直 蒲池太郎八

 「諸扣」とあるように、内容はさまざまである。このオークションもだんだん値上がりしている。どのあたりで落ち着くのか・・・
爺さまはただ見守るばかりである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■有馬一揆「証拠状」を読む

2019-07-22 13:34:12 | 史料

 熊本史談会会員のS氏から、有馬一揆にかかわる「証拠状」の史料のコピーを頂戴した。
戦場における戦いの生々しさを記録したものだが、S氏のお話によると、読み下しを為さったお姉様が途中で気分を悪くされたと聞いた。
ご先祖様は、戦場で尾藤金左衛門に出会い、証拠人になることを頼んでいるが、自分自身も死ぬかもしれないからといわれ、色々な人に声掛けをしている。金左衛門はその言の通り、石垣に張り付き大石の直撃を受け落下、再び上っては再度石にあたり死んでいる。
さてS氏のご先祖様の詳細については詳しくはのべないが、その働きは無事に見届ける人が居て褒章の対象になったのだろう。

戦場は侍の出世の一番の早道だから、家臣ではない浪人たちが知る辺を頼り戦場に赴いた人たちも多く見受けられた。
高名を上げた一握りの人が仕官されたりしているが、大方は一時金をもらって故郷へ帰っている。
高名(功名)とは証拠人を必要とする。証拠人がその事実を証明しない事には、折角の働きも功名とはならないのである。
あたら命をなくした牢人も多くあったようだ。

以前東京のS様から頂いた資料には、数人分の働きを見届けて、戦奉行の請いに対して出した証拠状があった。
いわゆる「ひっ切れ紙」に書かれたものだが、戦場で功名を上げた人にとっては、大事な/\な証拠状である。
それぞれの人が、自らの命も危うい中走り回る中、働きをして周囲の人に自分の名を告げて名前を憶えておいてほしいと頼むわけだが、相身たがいの事であるから、一戦が終わるとこのような現実に直面するのである。

お預かりした資料は誠に興味深いものがある。読みだすと時間を忘れてしまうほどである。
又、史談会で取り上げたいとお願いしたところである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■元和九年・十一月「中津郡今居村百姓等申状案」

2019-07-21 21:41:43 | 細川小倉藩

                     
7中津郡今居村百姓等   
|      任 御諚乍恐御理り申上条々之事

 申状案         |                            仲津郡ノ内 今居村
  田畠ノ検地ニ甲乙   | 一、今居村之儀は、余村ニ相替り、田畠御検地甲乙御座候、其内有躰之御竿も御座候、大目、壱段ノ
  アリ         |   坪ハ七畝、八畝ゟ外ハ無御座候、其上手前罷成御百姓、此前ハ、拾人も弐拾人も御座候故、上之
  上ノ村高免      |   村と被 仰付、近村ニ相違、高免被 仰付、年々ニ仕つぶれ申、于今残御百姓共ハ、其下ニ之者
  川成高        |   之儀ニ御座候へ共、右之つふれ頭百姓之田地、他村ニ御免をさげ、付申、其上ハ米、又、年々川
             |   成高ノ御米、過分ニ弁、上納仕候故、めいわくいたし申候事       はたと
  加子役ニメケ     | 一、今居村町之儀ハ、岡分之御百姓ニ而御座候処ニ、先年御加子役ニ被 仰付、礑御百姓めけ申由、
             |   被及 聞召候而、御加子役被成 御赦免被下候間、忝奉存候処ニ、去年之御免、御奉行衆被 仰
             |   候ハ、御水夫被成御免、此忝さハ、何ニて御礼可申上候哉、御免を上ケ、御請仕候へと、稠敷被
  脇役荒仕子米薪米   |   仰付、其年ゟ、今居村弥高免ニ罷成申候、岡役御荒仕子米・御薪米・此外御郡役毛頭不残被仰付
             |   候故、迷惑仕候事
             | 一、其後、浦々ゟ加子御やとい被成、為御賃米、水夫壱人、一日ニ付而、御米弐升宛被下候へ共、り
             |   やう人なミニ、春秋之御菜米ニ被成、御引次候故、御百姓手前ニ、御米御算用前請取申儀無御座
  櫓手ヲ備ウ      |   候、今井町中ニ、ろて取申もの無御座候故、小倉ニて、一ヶ月を銀子拾五匁、六匁ニやとい申候て
             |   御用之筈、今まてハ合申、致迷惑候事
  本加子        | 一、今居村、高九百七拾石余ノ内、本加子ハ、まこも・塚・沓尾ニて御座候、今居町分ニハ、本加子
             |   弐人御座候、残町分之御百姓共ハ、先年ゟ船手を存たるもの無御座候条、ろて・岡手二つニ被成
  櫓手陸手ノ改     |   御分、前々之岡役ニ被 仰付可被下候、此中も、ろて・おかてノ御改可有御座と奉存候条、今度
             |   是非共、二つニ被成下、筋目之岡役被 仰付可被下候、か様ニ申上候も、以来、御百姓仕度奉存、
             |   申上儀ニ御座候事
             | 一、今居町之儀ハ、右如申上候、年々ノつもりニ、御百姓中つふれ申候間、いつれニ成共、一方之御
             |   役目ニ被 仰付可被下候、左様ニ御座候而も、高免ニ御座候間、御面相ニ而も、少被成御心付候
  年々質入請出シ得ズ  |   而可被下候、殊更、年々しち物を方々ニ置申候て、御役目調申候へ共、終ニ、右之質物請申事無
             |   御座候間、今井町之躰を被及 聞召可被下候事
             |   右之通、少も相違無御座候間、乍恐、被 聞召分、以来迄、御百性続申様ニ被 仰付可被下所、
             |   如件
             |     元和九年十一月十三日                  七郎兵衛
             |                                 仁兵衛
             |                                 忠右衛門
             |                                 藤左衛門
             |         西郡形ア少輔殿                 忠五郎
             |         浅山清右衛門殿                 三右衛門
             |         横山助進殿                   吉兵衛
             |         仁保太兵衛殿                  善介
             |                                 惣左衛門
             |                                 又右衛門
             |                                 三七郎
             |                                 與三右衛門
             |                                 三郎左衛門
             |
  惣奉行等用状案    | 一、右之面書ニ付、被 仰出候事、
  忠利裁許       | 一、日比、水夫壱人ニ付、一日ニちん米弐升宛被遣分ハ、御さい米ニ指つき、水夫手前へ不取候段、
             |   無紛候間、兵粮米、前かとのことく被遣、其上ニ、村中ゟ仕立候銀、壱人ニ付、拾五匁宛之分を
             |   此方ゟ可被遣候、然上ニ、陸役之内、用水普請・道作、御荒仕子人から之事、万小遣ニ申付候、
             |   夫から之事、右拾人之水夫手前之分、被成御赦免候事
             | 一、御さい米、免被遣候事
             |       以上
             |     元和九年十一月廿七日        西郡形ア
             |         宮部久三郎殿        浅山清右衛門
             |         佐方少左衛門殿       横山助進
             |                       仁保太兵衛
             |             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【武家文書】肥後熊本藩 /武家文書/太守様・姫様・若様/書状/古文書32

2019-07-21 21:40:37 | 細川小倉藩

                  【武家文書】肥後熊本藩 /武家文書/太守様・姫様・若様/書状/古文書32 Yahoo!かんたん決済

                        【武家文書】肥後熊本藩 /武家文書/太守様・姫様・若様/書状/古文書32

 又このような文書がヤフオクに登場している。あと二日、値段はうなぎのぼりになることだろう。
願わくば熊本に残しておきたい史料である。相当な高値になることが予想されるが、年金暮らしの日々金欠病の爺にはなんとも歯がゆいことではある。
細やかな抵抗をしてみようかとも思うが、詮無い結果が見えている。
これが後、ばらばらになり、またオークションに登場することも考えられる。貴重な資料が金儲けの手段にならないよう願うばかりである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■評価「上々々」

2019-07-21 06:27:35 | 地図散歩

                 
 
 この絵図の成る年は承知しないが、加藤家末期の屋敷割図である。
新町かいわいに幾つかの池が描かれているが、町割りはほどんど代わっていない。
細川忠利が加藤家没落の跡を受けて、寛永九年の暮れに大国肥後に入国した際に屋敷割をするのに際して、その屋敷の規模などを「上々々」とか「上々」「上」などと評価をして書き入れている。
現二ノ丸広場の西には筆頭家老・松井家の屋敷があったが、加藤家時代は加藤右馬允の屋敷であったことが判りこれが最高ランクの「上々々」の屋敷であり、「・さと(佐渡守)」の書入れがある。その右上、後の藩校時習館の位置にある屋敷も「上々々」の書入れがあり、ここには、「下河又左衛門」の屋敷があった。加藤右馬允屋敷の西、空堀を挟んだ反対側には「庄林伯耆守屋敷」があり「上々」として「・伯耆」とあるが、こちらの「伯耆」は志水伯耆(清久)の事であろう。
いろいろな評価が面白いが、加藤家重臣の人たちの位置関係が窺えて面白いし、又細川家の入国時にだれが配置されたのかを「・」で示しているが大変興味深い絵図である。池のあとが現在のどの位置にあたるのか、面影でも残っていないのか、現地を探索してみるのも面白かろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■刀の鍔の二つの穴

2019-07-20 06:38:36 | 熊本史談会

 今日は史談会の7月例会、会の最長老に刀の話を伺う。
図録などを持っていこうかと思うが、なにしろ本は重いのでやめることにした。
しかし、何事につけ現物を見るのが一番理解できる。
日ごろ文鎮代わりに使っている刀の鍔を眺めてみると、二つの穴がうがかれている。
一つは小柄、今一つは笄を通す穴だが、さやの方にはこれを納める「櫃」と呼ばれるものがある。
この穴は一つのものもあるし、全くないものもある。
「田毎の月」などは用をなさないような場所に変な二つの穴があるが、これはどうしたものだろう。
宮本武蔵が考案したとされる海鼠型の鍔はこの二つを巧みにデザインに取り入れていることが判る。

     「小柄櫃 笄櫃」の画像検索結果 「小柄櫃 笄櫃」の画像検索結果

刀の鍔ひとつをとってもなかなか奥深い。私は刀の事は全くわからないので、今日は少々質問をしようかと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■忠利義兄の心配事

2019-07-19 10:46:44 | 歴史

   寛永九年肥後へ移封した細川家に代わり、豊前へ入国したのは忠利(47歳)の義兄・小笠原忠眞(64歳)である。
忠眞は忠利室・千代姫の実兄である(小笠原秀政子)。
翌十年(1633)八月廿四日、小倉藩主小笠原忠眞は、忠利と父・三齋の不和について心配し、書状を送っている。
それについての同九月二日忠利の返書である。
この時期仲違いしていた三齋弟・孝之(休齋・49歳)が兄の許(八代)にあることを知りうる書状でもある。


                態御使者被下八月廿四日之御状拝見仕候 我等父子間悪由被聞召
               何とそ可然様にと仰越候御心入之段 忝儀 書中難申盡候 其元へ左
               様被聞召候哉 切々用共御座候而 此中状數を取替候 左様之儀之理
               をも不存は何事そと存候而 申候哉と存候 今日為暇乞 口切可有之と
               て八代へ参候とて 御使者ニも早々得御意候 爰元ハ少も替儀無御座
               候 委細又三齋かたより可被申入候 彌九月十一二日ニ罷立候 於江
               戸御用候は可被仰聞候 被懸御心安候而早々被示下候段 御禮難申
               盡候 尚御使者可被仰候 恐惶謹言
                  九月二日

                     小右近様
                        御報

 

               尚々 我等おぢニ休齋と申者御座候 不聞事候而中をたかい申候
               他國も如何とて我等弟知行八代へ召寄候 其後ハ少も不苦候由
               申聞候 かやうの事を申候哉 以上

 

 大意は次のようなことであろう。
    【我等父子の中が悪いのではないかとご心配いただいているが、いろいろ用事があり書状が多くそのことでそうお思いかと思う。
     今日も三齋から口切に招かれているくらいだ。江戸でお目にかかりお話したい。
     叔父休齋とは仲違いをしたが、今は八代に居るのでそのような事もない。このような事(を含めて)のお話ではないのか】

        幽齋息ちゃち   孝之に家督・・・?  やっかいな叔父  寛永十年ころの休齋孝之  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■爺様用リック

2019-07-19 10:46:32 | 徒然

 明日は史談会の7月例会、今回は会の最長老(90歳?)に刀のお話をお聞きする。
私がしゃべるわけではないから、大いに気が楽なのだが、問題は説明資料である。
最長老に資料の準備をお願いするわけにはいかないから、何時ものごとく同大な量のコピーをしなければならない。
全部で15枚、一分裏表印刷があるから都合20ページ、これを20部コピーして仕分けしてガチャックで止めるという作業である。
丸一日がかりで準備完了、少々疲れて今日は体調芳しからず・・・
それでも二日前に終えたことは素晴らしい。

どうやら明日は台風の影響もあって、荒れ模様になるらしい。資料は毎度ショルダーに入れて出かけるのだが、これが重くて最近は身体に堪える。
こりゃ~リックでも買おうかと思案を始めている。リックだと両肩で重さをささえるから疲れもそうなさそうだし、老人にとっては両手が空くと歩行の時の安全性もUPする。
しかしその気になるのが遅すぎた。雨が降っていて買い物に出るのも億劫だし、Amazonで購入するにも間に合わない。
おまけに一応スタイルも気になるから、どんなリックにしようかと探し始めると優柔不断の爺様はなかなかこれを決めることが出来ないでいる。次の例会までお預けという事になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■元和九年・十一月「永瑞院慶宥申状案」

2019-07-18 06:29:33 | 細川小倉藩

             |    仲津郡           ようずいいん                    
5永瑞院慶宥申状案    
|    元永村之内永瑞院慶宥申上覚

  先住磬ヲ松井興長へ  |   けい                        松井興長   
  売却ス        | 一、と申打ならし、彼寺ニ御座候を、 長岡式ア少輔殿ニ売申候処ニ、代米三石、元和元年歳被下
  代米三石ヲ庄屋惣庄  |   候処ニ、吉永甚兵衛殿被仰候ハ、彼寺住持相果候間、慶宥ニ渡し候は、喰違可仕候条、所之庄屋
  屋ニ預ク       |   幷帆柱儀左衛門、両人ニ御預ケ被成候、借付置候へ、左様ニ候は、寺之建立をも可被成と被仰、
  方々へ貸付ク     |   方々へ借付被置候、然処ニ、御惣庄やゟ被申上、御米ニ被召上候様ニ承候、御米ニ被召上候物ニ
             |   て御座候は、御吟味次第ニて御座候、私として申上様無御座候、乍然、御惣庄屋手前ニ滞儀共、
             |   可有御座候哉と存、乍恐、得御意申上処、如件   永瑞院
             |     元和九年十一月十九              慶宥
  惣奉行等宛      |         西郡刑ア殿
             |         横山助進殿
             |         仁保太兵衛殿
             |         浅山清右衛門殿
             |
  惣奉行等用状案    | 一、永瑞院先坊主、うちならしうり候代米、先坊主被相果候共、書付を以、寺之修理之処被申上候は、
             |   可被 仰付候也
             |     元和九年十一月廿七日         西郡刑ア
             |         宮部久三郎殿         浅山清右衛門
             |         佐方少左衛門殿        仁保太兵衛
             |                        横山助進
             |


                       「磬」の画像検索結果
                 参考:孔雀文磬 くじゃくもんけい 文化遺産オンラインから

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ガラシャ夫人自害の日

2019-07-17 10:02:17 | 歴史

                                                                      

 今日は細川忠興夫人・ガラシャ(明智珠)が自害された日(慶長5年(1600)7月17日)である。
細川家では現在では宗教を異にされているから表立った行事といったものはないのだろうが、泰勝寺の四つ御廟や祖祀堂には香華が手向けられていることであろう。

 ガラシャの死については「霜女覚書」が残されているが、その状況を示す有力な情報である。
しかしながら、その編年が事件から半世紀ほどを経過しての回想であることから、そのすべてが真実であるのかどうかは判断しがたい。
一方、キリシタン史料に於いても、「一刀のもとに首を落とした」とか「火薬を撒いて火をつけた」などという記述は、その情報源は何処なのかと首をかしげざるを得ない。
その「霜」は、「御さいこを見届けしまひ候て罷出申候」と記しているところから、部屋の外から長刀で介錯したというのが真実だと考えたい。
「火薬を撒いて・・・」について私は、殉死者の一人「河喜多家」の史料に残る、「鴨居に火薬を仕掛けた」という具体的なやり方に、真実を見る思いがする。
ガラシャをはじめ、小笠原・河喜多・金津などが殉死して御供をしているが、御身に近い女性たちも御供をしたのではないか。とても御一人とは考え難い。紅蓮の炎に包まれて屋敷は焼け落ち、そのような疑問さえもかき消されてしまった。


ガラシャ夫人に関するキリシタン関係資料、其の他についてご厚誼頂いているSN様からHPやブログのご紹介を頂いたので、ここに取り上げておく。
           聖マリア大聖堂

           ブログ「模糊の旅人」

           聖母マリア受胎告知教会の彫像や壁画

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本の郷黨

2019-07-17 06:32:07 | 歴史

 先輩の話をきくと、昔は村単位で若者が集まり、よくケンカ沙汰があったそうだ。
川を挟んで悪口を言い合い、石を投げ合って怪我人が出たこともあるという。
万延元年、藩校時習館の訓導・井口呈助が「郷黨私儀」という一文を認め建白している。時習館改革の根拠とされるものなのだそうだ。
郷黨(連)同士の喧嘩沙汰は「郷黨の喧嘩がなければ、士気が振るわない」と記している。これは井口の意見ではなく世間がそう認識していたのだろう。
井口は「血気に任せ争闘に及ぶことを、勇気荒者と心得るのはもってのほかの僻事」だと断じている。
「郷黨」はもともと、時習館における教育とは別に、その地域/\に句讀師や習書師などを置いて勉学に及んだのが始まりらしい。
山崎・通丁・千反畑・内坪井・京町・古京町高麗門の六地区に屋敷(ニ間半×五間)を求めてこれにあてた。
その他の町にも黨(連)ができている。

井口自身も後には高麗門連の首領となり、その郷黨が「神風連の変」や「西南の役」に参加して多くの人が命を落としている。
しかしそれぞれの郷黨(連)の行動は一致団結した確固たるものではなかったようだ。資料は「郷黨の向背」と記す。
肥後武道史からご紹介する。

                      

                                               +ーーー甲ーー称号なし(佐久間連?) 戦役ニ應ゼズ
                        +---通丁連---+---+
          |      |    +----乙ーー櫻井町連  大部分應ズ
                          |      |
          |       +---------丙ーー水道町連   参加・不参加相半バス
                          |
   ■通丁連-----+---佐野連
                        |
         +---吉川連

         +---甲  戦役ニ應ズ
   ■千反畑連--+
         +---乙  戦役ニ應ズ

         +---甲(山崎實學)
   ■川崎連----+
         +---乙(宮川連?) 戦役ニ應ズ

                               +ーーー甲ーー 戦役ニ應ゼズ
                          +---柳川町連---+
          |        +----乙ーー 戦役ニ應ズ
   ■京町連----+
          |                +ーーー甲ーー池邊氏隊長 悉ク應ズ
                          +---赤尾口連---+
                 +----乙ーー櫻井町連 應ゼズ

                     +ーーー甲ーー正義連? 悉ク應ズ
                          +---------------+
   ■坪井連 ---+         +----乙      應ゼズ
                  |
                          +---------------------丙(坪井實學連) 應ゼズ(官軍ニ應援)

   ■古京町連(或ハ島崎連) 應スルモノ多シ

   ■高麗門連  九年敬神黨ノ變ニ加ハル(加ハラサルモノ十年ニ應ス)

   ■本山連   應セルモノアリ

   ■竹部連   九年若クハ十年ニ應ゼルモノアリ

   ■春日連


                            
        井口
呈助(呈吉)   井口岱陽 正は徳、字は子馨、通称呈吉、初呈助岱陽と号す。世禄二百五十石。
                 時習館助教より奉行兼用人となり、後少参事に転ず。平素詩を好み、石を愛す。
                 また左拳陳人の別号あり。
                 明治八年十一月二十三日没す、年五十七。墓は出町往生院。

          
                            

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■元和九年・十一月「仲津郡蔵納大橋村庄屋等申状案」

2019-07-16 20:00:35 | 細川小倉藩

             |                    
5仲津郡蔵納大橋村庄   
|    仲津郡御蔵納大橋村ゟ御理り申上候事
 屋等申状案       |
  加子役上ケ役ニ迷惑ス | 一、加子役・あげ役、年々仕り、御百性迷惑仕候事
             |
  水夫傭銀       | 一、所ニ水夫無御座候ニ付、余浦ニ而傭申、壱人ニ付、三十日切ニ銀子拾六匁、七匁宛ニ雇申、是又
             |   迷惑仕候叓
             |
  御菜米        | 一、水夫御役目仕候時、壱人ニ、一日ニ付、御米弐升宛被下候、是ハ御菜米ニ上納仕候
             |
             | 一、りやうも一切不仕在所ニ御菜米被召上、是又、御百姓迷惑ニ存候事
             |   
  牢人ニ加子アリ    | 一、今度御浦奉行衆御改被成候ニ付、当村ニ、牢人共ニ加子六人御座候間、御帳ニ書上申候、相残る
             |   者ハ、前々ゟノ御百姓ニて御座候、殊ニ高千六百石余之村ニ而御座候条、あげノ御役目、一偏

             |   ニ被 仰付可被下候事
  目安箱        |   右御蔵納ノ御百姓明脇仕候儀御座候ハ、御目安箱ニ書入、可申上旨、守、御諚、忝奉存候、御百
             |   性相続申様ニ、被仰付可被下候姓被下候、如件
             |     元和九年十一月八日                 庄屋 惣左衛  
  惣奉行等宛      |         西郡刑ア殿                御百姓 又兵衛
             |         浅山清右衛門殿                同 弥右衛門
             |         横山助進殿                  同 藤左衛門
             |         仁保太兵衛殿                 同 又左衛門
             |                                同 源右衛門
             |                                  同 三五郎
             |                                同 二郎右衛門          
             |                                同 三郎右衛門
             |                                同 孫三郎
             |                                同 善二郎
             |                                同 徳右衛門
             |                                同 次兵衛
             |
  惣奉行等用状案    |
  忠利裁許       | 一、右之面書ニ付、被 仰出候事
             |
  水夫賃米ハ御菜米ニ指 | 一、日比、水夫壱人ニ付、一日ニちん米弐升宛被遣候分は、御さい米ニ指つき、水夫手前へ不取候段、
  継グ         |   無紛候間、兵粮米、前かとのことく被遣、其上ニ、村中ゟ仕立候銀、壱人ニ付、拾五匁宛之分をも
  兵粮米ヲ給ス     |   此方ゟ披遣候、然上ニ、陸役之内、用水普請・道作、御人から之事、万小遣ニ申付候、
  陸役荒仕子人柄夫柄  |   夫からの事、右五人之水夫手前之分、被成 御赦免之事
                                     |
  御菜米免除      | 一、御さい米、免被遣候事
             |       以上
             |     元和九年十一月廿七日         西郡刑ア
             |         宮部久三郎殿         浅山清右衛門
             |         佐方少左衛門殿        仁保太兵衛
             |                        横山助進
             |

          
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「二ノ丸・米田御屋敷絵図について」

2019-07-16 06:18:55 | memo

 二ノ丸にあった家老・米田家の屋敷図を手に入れてから早いもので二年を少々過ぎてしまった。
熊本史談会の会誌の発行も忙しさゆえに、なかなか前に進まない。
そんな中、率先垂範で出稿しようと思って米田邸に関する建築にかかわるものとしての私の推論を小文を書いた。
それが、以下の文章である。諸兄のご批評を仰ぎたい処である。

            

   二ノ丸・米田御屋敷絵図について

熊本地震の直後、2016年10月頃よりインターネットのオークションサイト(ヤフオク)に、細川家家老米田家資料が一年以上にわたり、熊本市内の古物商から出品された。都合2・300点に及んでいるのではないかと思われる。
地震直後、文化財レスキューで助かった史料が多くある一方、ひそかに近世熊本のこのような貴重な資料が流出する現実があった。
後には「佐田文書」と名づけられて出品されるようになり、大方の出どころは推察することが出来たが、地震の被害を受けられたのか詮索しても仕方ないことであった。

公共の美術館・博物館・図書館また大学等に一括納められることが一番望ましいことであろうが、このような緊急な状態で金銭的問題が生じる現実には、差し伸べられる救いの手はなく最悪の経過をたどっていった。
一・二点ずつ落札して入手する中、日を重ねていくとその量が膨大なものになることを実感させられ、唖然とさせられた。まったく地元の人々の目に触れる機会もなく熊本から持ち出される状況である。
流出した資料の事を考えると無力感にさいなまれる。
そしてこれは手をこまねいている訳にはいかぬと考え始めた。

研究者や好事家ばかりではなく、明らかに商売を目的とした入札も見受けられ、現実それらの品物が現在またオークションサイトに顔を見せている。
そういう状況の中で、いささかの抵抗を試み私も入札に参加して勝ったり負けたりしながらも約40点ばかりを落札した。その内容は多岐にわたっている。

 2017年7月ころ出品されたこの「米田家御屋敷図」は、自分の職業柄の興味もあって、どうしても落札したいと強く思い入札に参加した。
締め切りはいつもの事ながら23時過ぎである。競り合いが続き、再入札が繰り返されれ、次第に値段は高騰していった。
しかし負けられないという気持ちが勝り、落札に成功したものの、気が付くと日が変わって居り、あまりの高額に及び、あとで呆然としたことであった。
しかし、流出を食い止めたという感慨はそれらの苦労をも凌駕した。
絵図は大小二枚(図1)であり、内容は若干の差違がある。
和紙にタテヨコ7㎜にへらで方眼が施され、それに間取り図が墨書されている。
一部彩色があり、説明のための朱書などもある。
しかしながら敷地の位置関係は書かれておらず、これは残念な事であった。
大きいものは605×465㎜、二枚の和紙を糊付けしてあるが、糊がはがれかかっている。大名並みの15,000石取の御家老の屋敷らしく、中央に能舞台を配した間取りであり、壮大さは藩主の居館・花畑邸をも彷彿とさせるほどである。
小さいものは372×282㎜、一部に糊代を含め123×67㎜の紙が貼られていたが、現在ははがれている。ただし、その位置関係は大きい間取り図により確認でき復元可能である。大小二つの間取り図は夫々の記載内容により補完される部分があり、この二枚を同時に入手できたことはありがたいことであった。

 米田邸は種々の絵図面で示される通り、二ノ丸の時習館の北側、百閒石垣上南側に位置していた。二ノ丸御門を入ってすぐ左側に位置している。
敷地の東側は道路(現在の道路ではない)をへだて、細川刑部家の二家が埋門から抜ける道を挟んで位置している。前の道は棒庵坂へ至っている。
大きな図面では確認できない建物の方位に付いては小さな図面で確認できた。
建物の西側は二ノ丸御門前の広場に面しており、三間間口の大きな玄関が設けられていて、その左手には家臣の通用口であろうか一間半間口の脇玄関が別途設けられている。 今一つ南側に時習館に対面するような形で玄関があり、小さな図面には「御成御門」の記載がある。これは間口は二間ほどである。
藩主がお出ましになったときの、専用の玄関であろう。
先述のごとく間取りは能舞台を中心にしており、御成御門はその正面に位置している。能舞台を取り囲むように大きな座敷が配されている。

 西の大玄関に繋がっている南西のブロックがいわゆる表だと思われ、入って左手には家臣の執務空間や控えの空間だと思われる部屋が多く連なっている。
玄関正面の大広間は約28帖、その隣南西角は「御鑓の間」と称する部屋で、変則な形をしているが30帖弱ある。その隣に南に面した「御座敷」と名付けられた部屋は梁間4間、桁行7間という桁外れな大きさである。28坪56帖敷である。これがお成御門の左手にあたる。
舞台裏には後述する大きな部屋も「表」の関係としてこれらに連なっている。

 御成御門の正面に12帖ほどの部屋が南面して二つあり、これがお成があったときの部屋でもあったろうか。後ろへ抜けると能舞台に面して2間巾の16帖の部屋があり、その前は巾1間の入側となって居り、ここが能を拝見するところであろうか。
しかしこの場所は御能を鑑賞するには下手側となり、必ずしも最適な場所とは思えない。
能舞台の正面にあたる東側の大広間には「御裏座敷」の記載があるが、梁間3間×桁行5間30帖の広さの大広間であり、ここが利用されたとも思われる。
 南東の角に当主の居間らしきものがあり、これに二つの大広間が付随していて、「御裏座敷」と繋がっている。
また「御裏座敷」の東奥にいわゆる「奥」と呼ばれる部屋がつながっている。中庭を挟み南に当主の部屋、北側に奥方の部屋とおもわれる座敷があり対面する形に配置されている。
「奥」の北側には「御次」と呼ばれる30帖ほどの大きな部屋があり、さらにその北側には御子たちの部屋ではないかと思われる部屋がいくつか見受けられる。
これ等の空間に続いて台所や風呂と思われるブロックがある。ちょうど能舞台の北側の背中のあたりである。
いわゆる「局」と呼ばれるような空間は見受けられない。
これら主殿から北へ9~10間程の長廊下があり、その奥にいくつかの部屋があり、ここが下働きの女性たちの控え室や作業部屋ではないかと推察している。

 これが米田屋敷の概要である。
当然ながら長屋や局等が存在していたと考えられるが、これについての記載はない。
小さい図面の方は、どうやら能興行が催された際に、楽屋を設けるための部屋割りが示されたものらしい。
能舞台の裏手にあたる位置には、「小御座敷・12帖」「御茶の間・24帖」があり、これらが舞台役者の控えに使われているようである。

一部朱書きで書き込みが見られる。
小さな紙片が多数張り付けられていたようだが、糊が外れてどの場所にあったのか確認できない状況があり残念である。
 この間取りがどのような形で敷地に配置されていたかは、二つの図面に於いてもまったく窺い知ることは出来ない。大変特徴的なことは、北へ延びる長い廊下であり、大変不思議に思える。西北の角・東北の角には何らかの建物がの存在が伺われた。
このことは、熊本城内絵図で該当する米田家の敷地図を眺めるとよく理解できる。西北の角は二の丸御門の為に、削られていることが判るし、東面には大きく敷地が広がっていることが判る。
米田屋敷は北側、つまり百閒石垣の上には道路が回っていることも確認できるが、あの山東弥源太がお正月の飾りを盗み、百閒石垣を飛び降りたというのは、この道に逃げ込んだという事であろう。案外両側から挟み撃ちにあったのかもしれない。

 熊本城絵図に於いては、米田屋敷の敷地形状とその各辺の寸法が記載されている。これに縮尺を併せてこの間取り図を重ねてみると、見事にはまり込んだ。
ただし、建物の寸法は単純に柱間1間=6尺という現在の感覚とは違うことを理解しなければならない。
当時の建築の平面寸法は畳の寸法によっている。つまり、畳の寸法(6×3尺)が定められており、敷き方に応じてその外側に柱を位置させたのである。
武家屋敷の古畳は表替えをして別の部屋に敷きこまれたかもしれないし、又そのまま払い下げられて町中の長屋等に敷きこまれたかもしれない。
究極のリサイクルが成立していた。
その後は柱の芯々寸法をもって1間とするようになったから、現代では畳の寸法は建築現場ごとにまちまちであり、再利用されることないのである。

 米田屋敷の南面は東西約22間程あるが、これに柱の大きさが数本分加わることになる。図面を見る限り60~90㎝以上の差が生じているはずである。
そのあたりは大目に見て、作図してみたのが下の配置図である。当然の事ながら建物が敷地境界からどのくらい離れていたかは良くわからない。
しかし概略このようなものではなかったと考えられる。
東北角に広い敷地が広がっているが、ここに長屋やお局が幾部屋も軒を並べていたのではなかろうか。

            
      
熊本城内の模型がどのような資料を以て作成されたのか知る由もないが、このような図面が現れたことで、高級武士の武家建築のあり様や、そこで生活する人々の日常さえ彷彿とさせる。

2018年10月2日の熊本日日新聞では、熊本大学図書館に同様の図面が寄贈されたことが報じられた。
これは当方が所蔵している図面の一部(半分?)のように思われる。
こちらには当方所有の絵図にはない「万延元年(11代是豪公代)制作」その他の制作に関する記事の書き込みがあるようだが、写真で見る限りでは同様の間取り図だと考えられる。
私と同じ時期に手に入れられたものと思われるが、寄贈されたそのご厚意には深く敬意を表したい。
私も同様の考えでありこの図面を私蔵(=死蔵)させようとは思っていない。しかるべきところに納めていただき、専門家の手に委ねて研究がなされることを強く願っている。
ただし、また死蔵されてしまっては元も子もないから、どこが一番良いのか思案をしている処である。御示教いただければ幸いである。

 熊本地震における熊本城の大被害は目を覆うものであった。
しゃちほこを失った天守の姿や、あちこちの石垣の崩壊、坪井川沿いの長塀の崩落等々、現状を目の当たりにした人々は一様に涙した。
一本足で倒壊を免れたけなげな櫓は全国の人々の目にも焼き付いたであろうし、先人の築城の技術のすばらしさに驚嘆したことであろう。
熊本人にとって熊本城は夫々の人々の心の支えであったことを改めて実感したのである。長い道のりながら、最近では復興の有様が遅々たるものではあるが確実に進んでいることを実感している。

私には完全に復興に及び全体の雄姿を眺めることはかなわないようだ。
米田家御屋敷に関するこの史料が、何らかの形で貢献できればこれにすぎることはないと思うばかりである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする