津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元和九年・十一月「京都郡蔵納行事村役人等申状案」

2019-07-15 20:27:19 | 細川小倉藩

             |                    
4京都郡御等蔵納行事村役  
|    京都郡蔵納行事村御理申上候事
 人等申状案       |
  加子役上ケ役     | 一、過去役・上ケ役両手ヲ年々仕、御百性迷惑仕候事
             |
  加子ヲ傭ウ      | 一、所ニ水夫無御座候ニ付、余浦ニ而、加子やとい申、壱人ニ付、三十日切ニ銀子拾五匁、六匁宛ニ
             |   やとい申、是ニ而迷惑仕候叓
             |
  水夫役        | 一、水夫御役目仕候時、一日ニ付、御賃米弐升宛被下候ハ、御采米ニ上納仕候、右之銀子拾五匁、此
             |   米九升ハ加子壱人分ニ而御座候を、御百姓弁、是又、めいわく仕候事
             |
  漁ヲセザルニ菜米   | 一、りやうなとも一切不仕在所ニ、御菜米被召上候、何共、めいわく仕候事
  ヲ徴収サル      |   
             | 一、今度御浦御奉行御改ニ付、当村浪人共ニ、加子三人御座候間、御帳ニ書上ケ申候、残てハ前々ゟ
             |   之御百姓ニて御座候間、上ケ役一偏ニ成共、加子役一偏ニ成共、被仰付可被下候、高七百三石三
             |   斗壱升六合ノ村ニ而御座候条、御百姓相続申様ニ、被仰上可被下候、右之通、御浦御奉行衆・御
             |   惣庄屋衆迄ハ、年々申上候へ共、御分別無御座候間、如此申上候所如件
  浦庄屋        |     元和九年十一月八日                浦庄屋 善兵衛
  上ケ庄屋       |                             上ケ庄や 平右衛門
             |   「右之条々申上候、以上」               御百姓 喜兵衛
             |                                同 甚右衛門
             |                                同 孫右衛門
             |                                同 小兵衛
             |
  惣奉行等用状案    |
  忠利裁許       | 一、右之面書ニ付、被 仰出候事
             |
  水夫賃米二升     | 一、日比、水夫壱人ニ付、一日ニちん米弐升宛被遣候分は、御さい米ニ指つき、水夫手前へ不取候段、
  兵粮米        |   無紛候間、兵粮米、前かとのことく被遣、其上ニ、村中ゟ仕立候銀、壱人ニ付、拾五匁宛之分をも
  陸役         |   此方ゟ披遣候、然上ニ、陸役之内、用水普請・道作、御荒仕子人から之事、万小遣ニ申付候、夫
             |   からの事、右五人之水夫手前之分、被成 御赦免之事
  御菜米免除      | 一、御さい米、免被遣候事
             |       以上
             |     元和九年十一月八日          西郡刑ア
             |         宮部久三郎殿         浅山清右衛門
             |         佐方少左衛門殿        仁保太兵衛
             |                        横山助進
             |

          
  

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■細川‐木下‐稲葉家

2019-07-15 06:34:02 | 歴史

  二木謙一・荘久美子校訂「木下延俊慶長日記‐慶長十八年日次記」を楽しんでいる。

                   ã€Œæœ¨ä¸‹å»¶ä¿Šæ…¶é•·å...」の画像検索結果f0122653_13491917.jpg                   
豊後日出藩主・木下延俊と豊後臼杵藩主・稲葉一通とは、それぞれ忠興の妹・娘を正室に迎えている。
「木下延俊慶長日記」(慶長十八年)によると、聟・舅の関係は良好で、度々の交流のほどが記されている。

ところが、元和七年(1621)十月廿六日の忠利宛書状の中に、次のようにあり二人の仲がよくないらしい。
      「稲彦(一通)と木右(延俊)と間悪敷事存候、當所へ被来候ハゝ、中なをし可仕かと存候事」(細川家史料-322 抜粋)
忠興の息・忠利は元和六年に家督しているから、その直後の話だが、忠利も延俊・一通とは大変仲が良かったらしい。
ところがこの時期は木下・稲葉両家とも奥方の加賀・多羅は既にない。
何が原因なのかよくわからないが、両家の寄親ともいうべき細川家としては、何とか両家の中を元通りにしたいと思ったことであろう。

          
                   
   細川幽齋---+-----忠興----+----忠利(1586~1641)
        |                  |
        |      +-----多羅(1588?~1614)
        |            ‖--------信通(1608~1673)
        |       稲葉一通(1587~1641)
        |      
        +------加賀(?~1604)  
            ‖-----+-----於岩(在・江戸 後・松平忠重正室)     
          木下延俊  |
        (1577~1642)  +-----於豊(在・京都 後・北野松梅院に嫁ぐ)
            ‖   |
            ‖   +-----於栗(在・日出 後・足守藩2代藩主・木下利當正室)
            ‖
            ●----俊治(1614~1661)

 

       多羅 慶長十九年九月十七日没 徳雲院玉叢英蘭 27歳
       加賀 慶長九年十ニ月十四日没 松屋寺即庵妙貞 没年齢不詳

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