「宇土細川大和守様御内室は、水戸御家門松平大學頭様の御姫様にて候處、大和守様へ御知行高増し進ぜられ、御分知に成せられ候様にとの御儀にて・・・・云々」と云うことがあったらしい。(續肥後先哲偉蹟巻二・木村秋山項)
この大和守は間違いで宇土藩三代目藩主・興生である。伊豆守・山城守を名乗り、夫人は松平大学頭源頼定の息女である。
夫人の御名は世兔、享保十一年六月二十七歳で亡くなっている。当時の本藩藩主は綱利公である。
興生は元禄十二年の生まれ、元禄十六年僅か五歳で遺領相続して宇土藩主となった。結婚した年を知りうる資料を持ちえないが、この話は夫人の没年からすると享保の初めではないかと察せられる。
綱利が宇土細川家のために分知加増を考えたというのは本当であろうか。
典拠の木村秋山の項を読むと、綱利は大學頭にたいして松月院(木村秋山)に直接話をしてほしいと伝えたらしく、大學頭は木村を直接召して相談に及ばれたという。木村はその席で御断りを申上げたが、国元でも協議してほしい旨の申し入れがあり、その旨を計りのち正式に御断りを申し入れたという。
大學頭のご立腹烈しく、その後は何の御沙汰もなかったという。
こういう話が残る所を見ると、どうやら本当の事かとも思える。綱利夫人は松山藩主・松平讃岐守頼重(水戸光圀兄)養女(水戸頼房女)である。
大學頭は徳川頼房の四男松平頼元を父とし、母:嘉禰は細川家とは縁深い小倉藩主・小笠原忠真女の長男である。
つまり大學頭は綱利夫人の甥に当る。
永青文庫の史料には残っているのだろうが、なかなか表立っては伺えない話である。
ちなみに御断りの大役を務めたの木村秋山は当時旅家老を務めている。綱利の晩年、隠居を進めるべく綱利の御次の部屋に三日三晩詰めて隠居を決心させたという。いろんな意味でまさに忠臣ともいうべき人物である。