津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■悪ごろ・村上平内

2015-05-12 09:03:19 | 歴史

 剣客といえば人格者と考えがちだが、村上平内という人物は相当な「悪ごろ」であったらしい。
この平内は宮本武蔵の二天一流の三代目の継承者とされる人である。(武蔵---寺尾求馬介信行---新免弁助信盛---村上平内正雄)
先祖を遡ると村上水軍の村上隆重に至る。男子・八郎左衛門(東右近太夫)は曽祖父、忠興の下にあって一万石を領した村上縫殿助(長岡河内)は八郎左衛門の二男であり三齋の死後離国した。長岡河内は平内からすると大叔父となる。

村上平内の悪ごろ振りは「肥後先哲偉蹟」に委しく書き残された。(巻二p434)

        村上平内は村上河内の子孫にて、二百石の家筋也、幼年より剣術に心懸厚、生得器用にて、所々
        の師に致入門、半年も執行致せば打勝様に相成、熊本中に師に可致人無之、宇土在中の御士に
        寺尾瓣助(藤次とあるが間違い)と申人武蔵流の名人の由承て、十七八の比直に彼地に参られ、始て對面申
        向候は、私儀御弟子に召加られ度、然し一本御相手に罷成候上にて決定可仕と申されければ、藤次
        (瓣次)も御望の通と木太刀一組出されければ、平内是位の小太刀にては手足(たり)不申と、時分山に走り登、
        樫木やっと計なるを、六尺計に打切、立向候處、藤次(瓣次)二刀にて差申されければ、平内仰向に倒れ驚
        入、直に入門相願、夫より八箇年の間在宅に罷越致執行、一流の皆傳に相成候由、其後門人に咄
        されけるは、其節藤次(瓣次)が差の先のきゝやう、明松の面に振付る様に覺えたるとの事なり、後黒田家
        に千石にて召抱らる筈に御約束申置候由にて、此方より御暇下さる様にと、御府中夜々打廻り、色
        々のあばれ事致し、御門番を柱に結付置、又は御堀に網を入抔致候へ共、御咎もなく置れ候處、新
        堀御門を立切申候に付、早速御暇下され候へば、殊の外大慶にて、家来大勢召連離國の様子にて
        出町口迄出候儀相知れ、早速御差留に相成、無餘義舊知行所大津手永の内へ致在宅、師範に打立
        熊本に懸け千人の門弟に成候由、子孫近年召出され兵法の師役相勤、右平内幼年より、人に替
        たる気性あり、屋敷竹邊(部)御薬園の由、十歳計の節、はつち坊主、道筋に病死致候首を刀にて打切
        持返り、晝は風呂桶の下に隠置、夜々縄にて垣際に結付、内に隠れ居り、人の通る足音を考え、釣
        下候に付、立寄見、何れも迯走るを楽と致候處、湯殿の内不怪悪嗅致に付、母及吟味、右の首
        見出して、強く教示有之由、幼年より如此気性にて、成人の後思やられたり (井田落穂雑録) 

そのた平内の悪ごろ振りは色々記録に残されているが、別項としたい。


 

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