津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■禅定寺旧山門

2015-05-21 07:17:30 | 古写真

 昭和58年8月に熊本市観光課・(二版は熊本市観光協会)から発刊された、「ふるさと--史跡と風土をたずねて」に掲載されている、禅定寺の今は無き山門である。
この山門は江戸後期のものだとされる(平成肥後国誌p316)が、平成6年12月に老朽化により解体された。
宇土城から並河志摩守が引き移したのは、冠木門であったことが寺本直廉の「肥後見聞雑記」に記されている。当然ながらこの門も今はない。

このお寺には我が曾祖父・母と二男夫婦、その息子夫婦のお墓がある。またここに眠る上田久兵衛は曾祖母の実父である。
何度も訪れたこのお寺の山門の写真を残したいと思い引用させていただいた。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お尋ねに応えて・・「高麗門の牢舎」について

2015-05-20 16:03:50 | 熊本

 ある方から高麗門町にあったという牢舎の場所その他についてのお尋ねがあった。

此の事についてはDr・T先生の「平成肥後国誌」に幕末の新町の正確な地図が掲載されている。
部分に「徒刑屋敷・牢舎」とある。現在の熊本市立一新小学校がある所である。
鎌田浩氏著「肥後藩の庶民事件禄」に、「熊本市中引き廻しのコース」が紹介されているが出発点である「高麗門」がまさにこの「牢舎」であろう。
武士と庶民では取扱いが全く違う。高麗門の牢舎におかれたのは庶民の犯罪者と考えて間違いなかろう。
又高麗門の勢屯には寛政八年(1796)まで処刑場もあったとされる。(平成肥後国誌・上p206松原町項)
引き廻しの対象者は当然死刑の者であるが、詳細についてはここで記すのはいささか憚られるので鎌田氏の著作をお読みいただきたい。
犯罪者は長六橋下河原又は井出の口で処刑場まで引き回されたが、そのルートは牢舎から新町御門から法華坂をへて二の丸に入り、二の丸御門から新堀・京町口をへて瀬戸坂を下り、坪井本通りへ出て上通り・下通り・新鍛冶屋町・唐人町・細工町から石塘をへて下河原へ至った。
井出の口の場合はさらにそれから足を延ばしたことに成る。
現在これらの町々は熊本市の賑やかな通りである。
怖いもの見たさで群衆が押し掛けたという。 

犯罪のありようは江戸期も現代もあまり変わる物ではないが、重賢公の時代に刑罰制度が改められ、いわゆる「御刑法草書」を生み当時日本一の近代的なものであったというが、死刑と云う悲しい現実は現代においても無くならないでいる。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■家康公より松井康之二男吉松を御返被成候

2015-05-20 09:24:10 | 史料

文禄三年三月の事として、綿考輯録は次のように記している。
「家康公より松井康之二男吉松を御返被成候、其故は吉松ハ家康公可被召仕候間、成長仕候上、差上候は康之身上程ニは御取立可被下旨、蒙上意居申候処、去年八月嫡子松井与八郎興之果候而、吉松より外男子無之候ニ付、当三月家康公伏見江被成御越候上、康之より奉頼願之通被仰付候、依之忠興君より御一字を被下松井新太郎興長と改申候」 

吉松(後の松井興長)が何歳の頃のことだか分らないが、父康之と徳川家康の間に、吉松を家康の直臣にすることが約束されていた。文禄二年兄興之は朝鮮(文禄の役)で疵を負い、病の床につき帰国したが、周囲の願いも空しく肥前名護屋の地で他界した(18歳)。父康之は吉松を継嗣とするべく家康に願い出ている。時に吉松は11歳。
康之之身上程ニは・・という表現が面白いが、大名にでも取り立てようと考えていたのだろうか。興味深い。 

秀吉からは十二万石で大名に取立てるという話を康之は辞退している。
後年、秀次の謀叛(?)事件に連座したとして、忠興は死罪に至らんとした折り、康之の奔走により家康の協力を得て事無きに至った。
康之の人物の大きさがうかがい知れる逸話がいろいろある。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松寿庵先生 第142講

2015-05-19 14:30:02 | 史料
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■是非不及

2015-05-18 19:10:14 | 史料

綿孝輯録巻35の寛永11年6月23日の書状に不思議な記述がある。

一、監物は慮外成体仕候上、切かヽり候により討果候由、就其書物共見届候、
  慮外成下々しかた不及是非候、惣別又若党ずい成仕かた多候由ニ候間、
  日外も其段無之様にと申つる

 なにやら事件がおきているのが伺えるが、其の詳細については記載がない。熊本藩年表稿にも記載がない。
この監物とあるのは、家老米田興季(与七郎・是季)であろう。誰かが切りかかってきたので、是非に及ばず討果したというのだが、さて何ごとが起きたのだろうか。
数行後の文章に「監物油断にて候、但煩にて気違候得ハ無是非儀候事」とある。
「日帳」を調べれば即座に判明するのだろうが・・・

「日帳」を拝見できる熊本市文書資料室は、6月1日に移転再開のようで、移転準備でお忙しいことであろう。この事件の詳細を知るにはまだ時間がかかりそうである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■仲悪しき義兄弟

2015-05-17 16:12:10 | 人物

先に ■悪ごろ・村上平内 を書いた。今一人成田清兵衛の弟子に臼杵杢之助というあばれ者があり、村上平内とはいたって仲が悪かったという。
藩の重役もこれを聞き頭を痛めていたが、両家が縁組すれば少しは治まろうと平内の妹を杢之助に嫁がせた。
嫁いだ平内の妹成る人も気苦労の多いことであったろう。杢之助(鉄炮頭300石)は後には平内同様、理由は定かではないが禄を除せられている。

      臼杵杢之助と云は、成田清兵衛の弟子にて、組打剣術二王身等を能せり、又村上平内と云は村上河内子なり
      新免瓣助寺尾求馬三男なり弟子にて、又剣術を能せり、其比何れも名高きあばれ物にて、種々の噺甚多きこと
      なり、其比は下帯組、二王組、いばら組とて、あばれ組三組あり、平内はいばら組の頭、杢之助は

      二王組の頭也、互に争度々ありて、事出来ることを計て、大家衆の取扱にて、縁組を取結せたり、
      杢之助が妹を平内が妻にす○家記には平内妹を杢之助に嫁すとあり是なるべし(殿云)既に婚禮す、
      日互に剣術の争有て、打合あり、杢之助庭に被下り、垣の強期を引抜てかまへたり、村上は樫木の
      割木の三尺計なるを持て立合たり、杢之助眞向に振上げ、打んとする處を、村上かの割木にて、ち
      よっとさしたりければ、垣を押破て隣屋敷に打出たりとなん、夫より杢之助は、剣術の師範を止
      て、組打計師範せりとなん、其子も剣術を能せしが杢之助死後、師範に取立んと門弟中より致
      せしか共、父の遺口なりとて、遂に師範をせざるとなり、さて村上は此上は成田に勝負せんと、翌
      日成田が自宅へ行、昨日の様を語て、此上は御自分様と仕合申んと、拳を振て仕懸るに成田打笑ひ
      御自分の剣術誰が右に出る者あらんや、臼杵が負たること尤なりとて、甚禰誉して、相氣の色見
      えざりし故、村上氣を呑れて歸り、中々成田はならんと申されしととなり、是より村上臼杵が中能成
      て、一つ組になる、臼杵は鑓も能せり、鑓と組打は村上負る、剣術には臼杵負ると、相互に咄合へ
      り、又或時臼杵に、二王身を取て見せよ、則二王身を仕て見せければ、村上大に笑て云、二王身素
      よりよし、然れども我より見れば、其用を不知、只石をすへにしにひとし、凡人は動を以貴ものなり
      と云り、臼杵尤なりとて、その後は止たるとなり (随聞録)
       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■がラシャ二題

2015-05-17 12:32:58 | 徒然

■なんでも探偵団を見ていたら、加藤藤九郎の作とされる茶碗二つを持ちこんだ人がいた。たしか二点を80万円で購入されたとか・・・・残念ながら偽物だった。
 藤九郎の紹介の中で、「ガラシャ」の銘をもつお茶碗が一瞬だが画面に現れた。
 藤九郎の作品をいろいろググってみたが見つからない。これは作品集でも見なければ見つからいようだ。また宿題が出来た。

■熊本出身の作家・小山寛二の著作「細川ガラシア夫人」が、上下巻二冊ヤフオクに出品されていた。
 私も所蔵しているが、装丁が棟方志功であるのがうれしい。
 落札してどなたかにプレゼントしようと思っていたが、空振りになってしまった。落札されたのか日にちが過ぎて不落だったのか定かではない。
 もう少々観察しておく必要がある。
                                                                小山寛二  細川ガラシヤ 上下 昭和35初 函帯 装幀・志功 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本城内を通る薩摩街道

2015-05-16 20:12:13 | 熊本

9年前の今頃 島津公の憂鬱 という一文を書いている。薩摩街道を北上した島津の殿様は、熊本城の新町御門から法華坂を上り、重臣の屋敷が立ち並ぶ二の丸に入っり、二の丸御門から新堀御門をでてようやく城内を抜け出すことに成る。徳川家定に嫁いだ篤姫も同様のルートで熊本城内を抜けて、御馬下の御茶屋で休憩を取り、熊本の美味しいスイカを食べている。

今日は史談会の例会、古川古松軒の「西遊雑記」を取り上げたが、ここでもまったく同様の事が書かれている。
つまり薩摩街道は熊本城内を通っていたわけだが、現代に至り豊前街道(薩摩街道)が国道三号線となると、さすがに城内は避けたものの、熊本城を右手に見ながら雄大な石垣の下を熊本市役所の前に出ていた。熊本市の硯川から熊本市浄行寺をむすぶ道路ができて、こちらが国道三号線となったのは昭和40年代の事である。半世紀ほど前の事だから、若い人たちは熊本城の真下を国道が通っていたなどとは思っても見ない。「うそ~」と云う話だが、江戸期にはまさしく御城の中を通っていたわけだから、「まじで?」ということになる。
通行中の薩摩公はさぞかし渋いお顔であったろう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お安く読む・岩波新書「都市 江戸に生きる」

2015-05-15 18:51:55 | 書籍・読書
都市―江戸に生きる〈シリーズ 日本近世史 4〉 (岩波新書)
 
             岩波書店

内容説明

江戸城の周囲に、大名屋敷、町人地、寺社地等が展開する巨大城下町・江戸。そこではどんな暮らしが営まれたのか。町の構成、物の流れはどうか。日本橋近辺、浅草、品川などの地を取り上げ、庶民の訴えや寺の記録、絵図や名所図会などから、都市を構成する多様な要素とその変遷を読み解く。細部から全体を捉える意欲的試み。

目次

第1章 城下町・江戸(城下町のイデア;城下町を構成する要素 ほか)
第2章 南伝馬町―江戸町方中心部の社会(高野新右衛門と南伝馬町;高野新右衛門が支配する町々 ほか)
第3章 浅草寺―寺院と寺領の社会と空間(近世前期の浅草寺;浅草寺一山と寺中 ほか)
第4章 品川―宿村と民衆世界(南北品川宿村;品川宿村の社会 ほか)
第5章 舟運と薪―江戸の物流インフラと燃料(江戸湊と江戸河岸;江戸河岸の人びと ほか)

著者紹介

吉田伸之[ヨシダノブユキ] 
1947年東京都生。1975年東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。千葉大学教育学部助教授、東京大学大学院人文社会系研究科教授を経て、東京大学名誉教授。専攻、日本近世史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本・福岡県境の二つの「関」

2015-05-15 09:08:05 | 論考

 明日の史談会で「西遊雑記」を取り上げるにあたって下調べをしている。肥後領から筑前領へと向かう古松軒の記述に「南の関に至る 古しへは松風の関といひし所にて當国の名所也」と書いている。

ぐぐってみると「松風の関」は福岡県みやま市の北の関に比定されている。なぜ古松軒は南関と比定したのであろうか? 

 豊前街道の熊本最北部に「南関(なんかん)町」があり、福岡県側みやま市の最南端部に「北の関」がある。
現在のみやま市の大津山一帯は中世期は肥後領臼間荘であり大津山関があったらしい。
臼間荘大津山の北・南に北の関・南の関が設けられ、中世期の為政者によりこの地が筑後領に編入された。慶長六年藩主田中吉政の時代に現在のような境が確定し、北の関は柳川領、南の関は肥後領と確定したらしい。
肥後人は南関をして「松風の関」と考えたらしいことは、三卿家老・松井家に残る南関の図に於いてもそう表現されているという。
古松軒が旅をした天明二年当時においても、そういう考え方があったればこその彼の記録であろう。
定かな説も見受けられないが、次のような論考が見えるのでご紹介しておこう。

             大津山関の比定

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■元田永孚誕生地碑は何処へ?

2015-05-14 18:59:44 | 熊本

                                                                            新しいウィンドウで写真1の拡大画像を開きます

 明治天皇の侍講を勤めた宮内官僚、後に「教育勅語」を起草したことで知られる元田永孚は、文政元年の生まれだがその場所は現在の地番では桜町三丁目あたりだとされる。昭和14年元田永孚誕生の地の碑を建立するに当たり、旧屋敷跡の場所を特定して、当時建設された専売局の東側、南出入り口前に建てられた。その後「岩田屋伊勢丹」デパートの新築にあたり一階の南面壁面に動かされた。
のちに県民百貨店に経営が移ったが、今般桜町一帯の大規模な都市開発事業により交通センターを含めて取り壊されることになった。
さて、この「碑」の運命はどうなるのであろうか・・・・・
                       元田永孚生誕地(もとだながざねせいたんち) 熊本市

        明治ノ功臣甚ダ多シト雖モ就中文勲第一ト称セラレル者ヲ吾ガ元田永孚先生ト為ス。先生ハ文政元年十月一日熊本城下山崎町ニ生ル。
   安政五年家督ヲ継ギテ大目付ノ職ヲ奉ジ、後屢累進シテ側用人兼奉行ト為ル。而シテ此ノ地ハ明治元年城東大江村ニ隠棲スルニ至ルマ
   デ、先生五十年間ノ居宅ナリ。明治三年再ビ廬ヲ出デ明年藩公ニ召サレテ上京ス。先生既ニ西帰ノ志アリ。偶知友先生ヲ明治天皇ノ侍講
   ニ推サント欲ス。固辞スレドモ可カズ。五年五月宮内省出仕ヲ拝命シ、爾来二十年蹇蹇匪躬沃輔導ス。若シ夫レ勅語発布ノ獻替ニ至りテ

   ハ、贅スルヲ須キズ。二十四年一月二十二日歿ス。年七十三。前日特ニ華族ニ列シ男爵ヲ授ケラル。本会邸阯ノ湮滅ヲ□レ碑ヲ建テ聊カ
   先生ノ行歴ヲ書シテ長へニ景仰スル所アラシム
              昭和十四年二月                               熊本県教育会 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■悪戦苦闘中

2015-05-14 11:24:18 | 熊本史談会

今度の週末16日は史談会の5月例会、配布資料作成に忙殺されている。
そんな中、いつも使っていた複合機がトラぶって、コピーやプリントが出来なくなり、急きょデスクの下に押し込んでいたプリンターを引っ張り出した。
複合機の方は昨年12月末に買い替えたばかり、保証期間中なのでメーカーに送って修繕をしてもらうことにしたのだが、いろいろ手続きや品物の発送などで結構時間を費やすることになった。
一方プリンターの方はブラックのトナーを入れ替えてしばらく動かしていたら、白黒でプリントしているにもかかわらず「ブルー(シアン)」が減ってストップ。
あわててチャリンコを漕いで買いに走る。ブラックも併せて買えばよかったのだが前日入れ替えたばかりだと油断していたら、今度はこれがきれた。
(ワンパックになっていないのだ)又チャリンコで走るというあわただしさである。近いから良いようなものの、時間がもったいなくてイライラが募る。

なんとか250枚ほどをプリントして一息つく。
古文書原文と釈文を読みあわせしていたら、間違がちらほら・・・・プリントをし直すかどうか思案したが、当日会員各位に夫々訂正をしていただくことにした。
案内状をお送りすると平成27年を17年としたり、案内状の例会の日付と返信に書いてある日付が違っていたり・・・・何をやっているのか??
73爺もそろそろ限界に近づきつつある。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■村上家略系図

2015-05-13 09:36:24 | 歴史

村上弾正少弼隆重---八郎右衛門尉---+---○
                                                |
                 |  長岡河内・一万石 三齋死去後離国
                 +---縫殿介---●        +---●余田半助嫁
                 |               |
                 +---吉之丞正重---吉之丞正之---+---平内正雄---+---平内正勝---平内正則---百助正光---孫四郎・・・・・・→村上孫四郎家
                               |       |
                               |       +---正之八郎右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→村上弁蔵家
                               |
                               +---●豊岡角左衛門嫁
                               |
                               +---●臼杵杢之介嫁
                               |
                               +---正房吉之允


           先祖豫州能島城主・村上山城守雅房孫、村上弾正少弼隆重、備中國笠山に在城、後周防國小畑に移る、
           隆重嫡子村上八郎左衛門尉(景広)後東右近大夫と改、同二男村上縫殿介三齋公豊前へ召寄らる、御入
           國の節御供、於八代長岡河内と改名、知行一萬石拝領、右右近大夫子・村上吉之允正重、父病
           死後幼少に付豊前へ参、縫殿介方へ居申候處、妙解公(忠利)於豊前御小兒姓に召仕られ、二百石拝領
           御入國の節御供、有馬御陳足へ重炮丸を受倒候處、又々玉を受御國へ歸る、手疵養生不叶、三十三
           歳にて相果、討死御帳に記さる、二代吉之允正之家督、其節六歳なり、御郡奉行・御番方組脇・御鐡
           炮頭・御作事頭・御郡頭・御奉行等相勤、元禄四年隠居、三代平内正雄元禄七年武蓺上覧の節、
           弓にて罷出候處、平内儀、文武共に達候旨御意、即座に申渡、其後兵法御覧御内意の處、平内
           申上候は、兵法の儀は、未た鍛錬不仕候間、未熟成る儀を仕候は、如何に奉存候由申上候處、猶又
           敵に勝候儀を致候様にとの御内意に付、勝申候儀は覺申候間、御家中兵法者、他流不残、相手相打
           を仰付られ候はゞ、仕申度申上候處、御上覧は無御座候、然る處、平内病身に罷也、御奉公難勤、
           御知行差上度、奉願候處、叶はせられず、無構其儘罷在候様仰付られ候、十年平内儀世間出合不宣、
           殊の外手荒打合等に懸り、何も悪き風聞致候間、御知行召上られ候段仰渡され候、其後監物殿宅に
           て、三宅藤兵衛を以、平内御知行召上られ、難儀可致間、一類中より麁末に不致候儀、一類中へ申
           渡に相成、且又平内他國を望共にては無之歟、若左様の儀有之節は、一類中へ迷惑仰付られ候段、
           申渡に相成、前々の通、思召の筋も在せられ候間、身を崩不申、押移候様仰付らる、其後金子御米等
           拝領、元文四年十二月病死 (以下略) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■悪ごろ・村上平内

2015-05-12 09:03:19 | 歴史

 剣客といえば人格者と考えがちだが、村上平内という人物は相当な「悪ごろ」であったらしい。
この平内は宮本武蔵の二天一流の三代目の継承者とされる人である。(武蔵---寺尾求馬介信行---新免弁助信盛---村上平内正雄)
先祖を遡ると村上水軍の村上隆重に至る。男子・八郎左衛門(東右近太夫)は曽祖父、忠興の下にあって一万石を領した村上縫殿助(長岡河内)は八郎左衛門の二男であり三齋の死後離国した。長岡河内は平内からすると大叔父となる。

村上平内の悪ごろ振りは「肥後先哲偉蹟」に委しく書き残された。(巻二p434)

        村上平内は村上河内の子孫にて、二百石の家筋也、幼年より剣術に心懸厚、生得器用にて、所々
        の師に致入門、半年も執行致せば打勝様に相成、熊本中に師に可致人無之、宇土在中の御士に
        寺尾瓣助(藤次とあるが間違い)と申人武蔵流の名人の由承て、十七八の比直に彼地に参られ、始て對面申
        向候は、私儀御弟子に召加られ度、然し一本御相手に罷成候上にて決定可仕と申されければ、藤次
        (瓣次)も御望の通と木太刀一組出されければ、平内是位の小太刀にては手足(たり)不申と、時分山に走り登、
        樫木やっと計なるを、六尺計に打切、立向候處、藤次(瓣次)二刀にて差申されければ、平内仰向に倒れ驚
        入、直に入門相願、夫より八箇年の間在宅に罷越致執行、一流の皆傳に相成候由、其後門人に咄
        されけるは、其節藤次(瓣次)が差の先のきゝやう、明松の面に振付る様に覺えたるとの事なり、後黒田家
        に千石にて召抱らる筈に御約束申置候由にて、此方より御暇下さる様にと、御府中夜々打廻り、色
        々のあばれ事致し、御門番を柱に結付置、又は御堀に網を入抔致候へ共、御咎もなく置れ候處、新
        堀御門を立切申候に付、早速御暇下され候へば、殊の外大慶にて、家来大勢召連離國の様子にて
        出町口迄出候儀相知れ、早速御差留に相成、無餘義舊知行所大津手永の内へ致在宅、師範に打立
        熊本に懸け千人の門弟に成候由、子孫近年召出され兵法の師役相勤、右平内幼年より、人に替
        たる気性あり、屋敷竹邊(部)御薬園の由、十歳計の節、はつち坊主、道筋に病死致候首を刀にて打切
        持返り、晝は風呂桶の下に隠置、夜々縄にて垣際に結付、内に隠れ居り、人の通る足音を考え、釣
        下候に付、立寄見、何れも迯走るを楽と致候處、湯殿の内不怪悪嗅致に付、母及吟味、右の首
        見出して、強く教示有之由、幼年より如此気性にて、成人の後思やられたり (井田落穂雑録) 

そのた平内の悪ごろ振りは色々記録に残されているが、別項としたい。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■世界遺産へ・三角西港

2015-05-11 17:13:22 | 熊本

 所要があって天草の入り口三角へ出かける。先に発表され世界遺産候補になった「明治日本の産業遺産」の三角西港がある。
各地の候補地も大いににぎわいを見せているようだが、三角西港も何時もならば魚釣りの親子などでにぎわいを見せるのだが、今日は平日とあって賑やかと云うほどでもない。
今日は私も「熊本ンわさもん」となって、しばし散策をしてみる。
最近は「A列車で行こう」のフレーズのJR三角線のニュースも昔ほどではなくなったが、これも又復活することであろう。

天草の崎津の教会も、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として登録を目指しているが、これらが認定されると「天草雲仙国立公園」も厚みを増してくることだろう。少々気が早い話だが大いに期待したい。

熊本からは1時間少々のドライブコースだが、ただ片道一車線の道路事情が気にかかる。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする