ここ二三日、右目がごろごろする感じがあった。今朝布団の中でなんとなく違和感をおぼえ目をこすると、少々痛みがある。
起きて鏡を見ると、すっかり充血している。なにが原因だろうかと不安がよぎった。
色々考えているうちに原因らしきものが頭に浮かんだ。シャワーをしたときシャンプーの液が目に入ったのだろう。
その時はすぐ洗い落としたつもりでいたが、少々目にしみていた。あまり気にすることなく過ごしてきたが、少々ひどい兎の眼である。
週末は史談会の例会がある。それまでに直るかしらと男前(?)を気にしている。
寛永三年三月廿五日、於小倉御本丸御花見之御当座(綿考輯録・忠利公--上、p127)
遠山桜 忠利君
とを山の霞につゝむ桜花長閑にもふけ春の朝風
惜花 孝之主
散花を惜心もおしなへて豊なる世の程そしらるゝ
忠利公の年が一つしか違わぬ叔父・孝之(休斎)との蜜月の時代の模様が伺える。
孝之は幽齋公の四男、兄・忠興公とは22歳の年の差がある。豊前香春城(25,000石)を預かったが一国一城令により退身、京都へ出て幽居忠利から三百人扶持をもらっている。色々な資料から幽齋が自分の隠居領を相続(香春城?)させようとしているようだが、実行されたようには見えない。
忠利は「我等おぢに休斎と申者御座候、不聞事候而中をたかい申候」と公言をはばからない。
熊本入国後も勝手な振る舞いが多く、忠利の頭を悩ませている。熊本に入る事さえ嫌い忠興の居る八代で過ごしたようだ。
禄を忠利から受ける事さえ嫌い、忠利は忠興に相談を持ちかけたりしている。
忠興の息・立允から扶持をもらうのはどうかとさえ申し出ている。仲たがいはどうやら本物である。身の置き所のない休斎のうっぷんが伺える。
綿考輯録にまとめられている事柄を次回ご紹介する。
先日「馬追い込み丁」のことを書いたが、地図に堅山南風先生の生家を書き込むのを忘れていた。
立町通り赤鳥居の反対側にあたる所に標木が建てられている。
此処にご紹介した「想い出のままに」という著は、まさしく南風先生の昭和57年の御著である。
東京小石川の細川侯爵家に寄宿されておられたことがあるが、わたしの祖父が家政所に勤めていたための御縁で、我家には数葉の先生のデッサンが残されていた。昭和19年祖父母・父の三人が亡くなり、私は母と姉と三人父祖の地熊本に帰ってきた。以来私は熊本地五郎である。
貧乏暮らしの中でこのデッサンは、伯父の手にわたってしまった。
そんなことがあって、南風先生の御名は大変親しみを感じるし、画集やこういった御著にも親しんでいる。
この著のトップに「望郷五景」として五つの小文が乗せられている。そしてそれぞれに俳句が添えられている。
■ しびんた 紫ビンタの紫かなし川からし
■ 蛍 ひたすらに蛍呼児の吾なりし
■ 成道寺 玻璃皿の白玉清し初袷
■ 根子岳 物の化のあるちょう山の月おぼろ
■ 蛙の子 行水に幸いあれや蛙の子
終生熊本を愛してやまなかった先生の目線は、生家のごく身近なところに向けられていて優しい。
「しびんた」は坪井田ばたの泥川だとされる。たぼ網でしびんたを掬って遊んだ少年時代の思い出である。
「蛍」は八景水谷(はけのみや)まで出かけた蛍狩りの様子である。
「蛙の子」はまさしく立町通りの生家での話、どこからともなくオタマジャクシが、先生のお宅の敷居(玄関?)際に近所の草むらからやってきたという。
先生の生家はかっては参勤交代の美々しい行列がこのあたりで隊列を調えた由緒の地である。
ちょうど一年前 ■縁組 佐分利家×松岡家 を書いている。
そして佐分利越人なる人物についても、ミステリアスな人・佐分利越人(越知越人) を書いていた。
吉田美和子氏の著「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉」で、著者は主人公俳人芭蕉の弟子・越人を熊本の佐分利氏だとする説を完全否定している。
これは誤伝によるものであるというのである。
そもそも吉田氏が指摘する誤伝はどこから出発したのだろうか。熊本在住の文学関係者でこれを調べた人もいないように思われる。
吉田氏は、幕末文政年間に出された曰人著「蕉門生全伝」が「肥後熊本の出身、細川越中守の近習佐分利流槍術家佐分利勘左衛門であるとする誤伝」だと断定されている。
ところが時代を遡る事項がみえて事は厄介である。それは在熊の俳人・久武綺石(文化二年歿)の墓石に刻まれた次のような文章である。
「俳諧者滑稽之流也、而其始也戯謔而也、及芭蕉翁同其體栽、而燮風旨、然後言近而指遠者有焉、謂之正風、吾藩佐分利越人、嘗出居濃洲、學於蕉門、及其後歸也、職事鞅掌、不暇傳人、正風自綺石子云」
これは肥後先哲偉蹟に「佐分利越人」なる項から引用したが、この項とて一重に「俳人越人」を取り上げていると思われるが、実否が混交していずれが真実か計りがたい。
吉田氏による「越人・芭蕉 略年譜」によると、越人の没年は享保二十年頃としているが、佐分利家の先祖附によると没年は元禄十五年三月十四日であり、明らかな違いがある。
まことにミステリアスで出典を洗い直す必要がある。好色な人・越人とされた「佐分利七兵衛氏恒」の名誉のためにもである。
御辭令
書付 安永七年十二月二十二日
平太左衛門儀、御加禄御断に付、願の趣達尊聴
謙譲の旨趣、具に聞召届せられ候、格別の存年に付
達下され度儀には思召上られ候へ共、御家重き勲業
の御賞賜を枉闕させられ候儀は、平太左衛門存年、 枉=まげて
御感賞一偏の思召にも任せられ難き儀に付、御書付
通彌以て下置れ候様條、此段申聞べき旨、仰出され候
以上
口上之覺
平太左衛門儀、御加禄御断に付、猶又仰出され候趣
は、只今申渡候様通に候、厚き存年の趣逐一に聞召届ら
れ、御感心遊ばされ候、然處、御政務の管轄は、格別平太
左衛門へ仰付置れ、多年の勤労、數多の勲業、疾にも
賞らるべき處深き思召有之、御賞賜の儀當時迄、御差
延置せられ候へ共、著き成功及御國家、賞せられず候
ては、於御政務重き御賞賜の事闕候に付、先蹤後鑑何
分其通に差置され難く、彌以御書付の通下置れ候旨、
仰出され候、然ながら右の通仰出され候儀、於平太左
衛門は迷惑に奉存べくと、此段は御苦悩の思召上ら
れ候、右の趣猶又委敷申聞候様に仰出候以上
御直書 寛政四年七月四日
平太左衛門儀、數十年來抜群の勤功無比類儀は、追
々申聞候通に候、是迄四代の間、精勤令満足候、然
處及老年候に付、願出の趣尤に存候、此上今暫も相
勤候儀存候へ共、願の趣も無餘儀事に相聞候に付、
乍残念直に隠居申付候、然上は多年致心労候間、随
分可保養、、随意に緩々休息候様、随て此品、此小脇
差大原宗永隠居指に可致相應哉と存付候間遣候、尚病快
相成候はゞ、追々咄等に出候様存候なり
堀丹右衛門へ仰渡さる 弘化四年正月十一日
高祖父平太左衛門、格別の勤労思召され、別段の思
召を以て、御加増高舊知に准せられ、都合三千五百
石、後年迄増減仰付られざる段之を仰出さる
(以下白文略)
了
一、或年の夏、村里所なく雨乞をすれども雨降らず、大夫の□□儀にて、六所宮の社人に仰付られ、二丁住吉
社に於て、私宅に引入、自分の祈念有之候由、然る處七日目の朝迄、一向雨の氣無く候に、其夕方
になり、大夫供の者まで悉く雨仕度、蓑笠にて住吉社へ参詣有之、祈念致され候に、暴に天掻曇り、大
雨車軸を流し降ければ、群衆の百姓供、流れの中に屈伏して、涙を流し、大夫に向かひ、伏拝み申候、
此儘にて悉く蘇り、秋の實のりも類無りしとなり、是ぞ至誠天を感ずと可申候 行状の一本を抜す
一、彼の家に仕へし老女の噺とて、大夫初て大奉行の命を蒙られ、夜寝間に入られしが、人静りて猶物を
思案して、しはぶきの音聞えしが、鶏鳴近付て大に安心の體にて大息突かれ、夫よりしはむ(ママ・ぶ)き止て、
いびきの音、熟睡の様子に相聞え候となり、竊に大夫の思案致されし處の事を案ずるに、他の事に
て無之、必此日御委任蒙られし處の國家中興の要務にて可有之、但し承るに、大夫妙齢より經世有
用の意に志有て、常に國政の因循陵夷を憤り、故老能吏に就て、政事の要領、選擧刑法、町財勘定
等の組立を、悉く問尋、又江戸往來に大坂の米穀の形勢を見積て、國家中興の成算を早く胸中に思
惟致置れ候由、然るを霊感公兼々能御存遊ばされ候となり、然れど容易に事を取計はれず、大夫に
も此節御政事を手取られ候に臨ては、兼々思惟致置れ候處の、中興の成算を彌實地に踏候て、弊害無
之哉の所を、尚又終夜思案加られて、其後慥に見込立候上、御受申上、差入御奉公致され候と存候 同上
一、堀平太左衛門殿在勤の内、或時何者か為たりけん、備前堀の側の一寸榎へ、平太左衛門殿を堀屋
平太左衛門、才助殿を志水屋才平と、町人のやうに書て、此人御政事に與り宜しからずと云とを書た
てゝ張付ありしを、其朝早く堀殿家の目附役の者、見付て書寫、早速平太左衛門殿へ見せければ、扨
々をかしき事を致したりとて、不怪笑はれける、頓て御役人など通り懸られて、はぎすてられける
を、平太左衛門聞かれ、夫は笑草ともなりなんものを、はがずに置けばよいと申されて、少も心に
かゝる様子もなく、素より露も腹立らるゝ氣色聞ざりしとぞ、其後才助殿と咄合、又共に笑はれける
となり、世の常の人にてありなんには、怒を含み、必権柄を以て吟味をも、とげらるべきことなるに、
氣にも當られざるは、誠に格別なる所なるべし、 雲从堂秘話
一、堀平太左衛門出頭の時分、或朝門前に、人形の馬を率、門に入る體を作りたるを、落してあり、人
形の足は、赤脚半をさせたり、玄關の者共、不審に存じ、平太左衛門に申出候處、平太左衛門よし
よしと申されたり、家來如何なる譯にてござ候やと尋けるに、足元の赤き内に、引込めと云事なり
と申されしとぞ 忍草
一、 (白文略)
一、堀平太左衛門勝名初勝貞隠居後巣雲と穪す 享保元年十二月三日生・寛政五年四月二十三日没年七十八
號瑞雲院 本妙寺山中に葬る 母藪氏慎庵の妹なり 配平井杢之允女三男二女を生む 長丹右衛門勝文別有傳 次民之
助大木氏を継ぐ 次女益田彌一右衛門に嫁ぐ 次女西山彌次郎に嫁ぐ 次大八松野龜右衛門養子となり病
氣にて離別 家記
一、御裏にて御祝胴擧と申て、御小姓頭御用人など、新に仰付られ、又悦事有之節、擧て迷惑致させ候は
古來よりの風俗なりしに、堀大夫、御小姓頭仰付られ候砌、御裏へ参られ、麻上下着にて、今日は
御祝に預度と、先をかけ罷座られければ、其顔色にや畏れけん、威儀をや憚りけん、一人も近よる
人無りしとなり、此時年十八なりしとぞ 池松筆記
一、堀勝名執政の時、一年旱甚敷、種々手を盡し雩ありしかど、其験無りければ、勝名朝粥を唯一椀食
して、政府に朝し、歸ては一粒の食もせず、朝服のまゝ、庭中に榻を置て、其上に座して、炎暑に照
られながら、雨を祈り、夜に入て、翌朝に至る迄、其通に端座して、さて出勤前に、又粥一椀を食し、
出勤あり、歸て又昨日の如くして、雨を祈られければ、天神感應座し、六日目には大雨降來て、國土
を潤し、草木共に生盛せしとなり 梅園雑記
坪井繁栄会が作成した「歴史と文学ふるさと散歩マップ」なるものを見ていたら、宗心寺(熊本市坪井4丁目)の東側に「馬追い込み丁」があったと記されていた。地名に関する書籍や、古地図など随分親しんできたつもりだが、何とも悔しくて仕方がない。マップによると米田家の菩提寺「見性寺」の東北の角あたりにマーキングされている。そして説明には「宗心寺のえんま堂近くには参勤交代の供揃えをする広場があり、その広場の東側の路地が馬追い込み丁で、あばれ馬を堰とめ、捕まえる場所で、この名は昭和初期まで使われていたという」とある。
大正八年発行の「熊本市全図」をみてみると・・・・・あった。まさしく宗心寺の東側の路地である。
新熊本市史の地図編をみると、該当する場所の地図が数種掲載されているが、丁名の書き込みは見えない。又路地入口部分の状況も年代ごとに変化している。
そんななかで「これだ」と思わせる地図がp168に掲載されている、「68-6-2、熊本所分絵図 向寺原 建部之絵図 分割2」である。
どうやら宗心寺東側の勢屯から見性寺東側の突き当りの道に至る路地の事を差しているらしい。立町通りから約200mほどの距離である。
あばれる馬を勢屯からこの路地に追い込み、静まらせようという訳である。
内坪井から立町を経て豊後街道へと続いている通りに、南から直角に進んできた道(現浄行寺前の通り)は現在国道三号線となって、此の周辺の古くからの町や道筋を東西に分断してしまった。国道三号線に数メートルしか離れず並行している路地こそが、この「馬追い込み丁」である。
絵図下方の「七曲り」とよばれる入り組んだ道筋もかってはこのような状態であり、東西に分かれたそれぞれの現状からはうかがい知ることが出来ない。
蓑田勝彦氏の論考「天保期熊本藩農村の経済力 : 生産力は二百万石以上、貢租はその1/4」は、幕末にかけての肥後藩の真の生産力を、諸資料から具体的な数字をあげて実証した大変説得力のあるものである。維新による新政を美化するための貧農史観もそろそろお蔵入りを願わなければならない。
熊本市都市政策研究所が発刊したこの「熊本市都市形成史図集」は、当初発行部数が少なくすぐ売り切れてしまったが再販された。
この図集は「明治22年から終戦直後の昭和22年に至る16葉の地図と解説文で構成」されており、熊本市の都市形成の移りを知ることが出来る。手元に置きたい史料である。
熊本市役所・1階市政情報プラザで販売されている。一部800円
一、平太左衛門殿功労の儀は、御國中は不及申、既に公邊にも相聞、諦了公御代台命の旨も有之候、此
頃江戸詰の節、天下に名高き白川侯、御目見仰付らる中略又一歳大坂にて御用達彼是馳走の結構あり、
長田よりは肩衣を所望致し候へば、直に其旨に任せられ、扨長田申けるは、右道具の内、何ぞ差上度
望も候はゞ大慶なりと、頻に申されければ、さし寄近く取飾り有之候茶器の内、此品申受べしとて、持
返に相成候、然處右の品は至て珍しき器の由にて、長田も格別秘蔵の物にて、價も二千圓位は致す由
なれども、堀殿は左迄の品物とも思はれず、不案内にて所望致され、跡達て右等の様子も承はられ、
殊の外我折にて候へども、先其儘持下り、又々大阪へ登られ候節、右の品を返し申され、御國許段
々茶好みの人も有之見せ候へば、珍しき品物にて、何れも褒申候、乍恐餘り上品に候へば、中々
國許にての茶湯抔の席に飾候器にて無之、左候へば所持致し候も無用の儀と存じ、此節持せ越申候
間、先暫返却致し置候段申越し候、戻し振殊の外立派に有之たる由、其頃致穪美申候 鎌田氏雑録
一、上略 平太左衛門殿、寛政五年四月本庄の隠宅にて、病症危篤に至り、親戚打寄、看病の折から、夜陰
至り、隠宅の下道を、大勢聲高く唄ひわめく者あり、折しも四月の暗にて、あたり近き市中の若者
男女大勢蛍狩の歸るさにぞ有ける、思ひ/\に唄ひわめき、大勢にて罵りけるが、看病の床に喧
く響きければ、詰居ける浅尾とかや云けるが、心なき若者共が戯を、かく危篤の病床、殊更名高き尊老
の病にて、歴々心をひそめ、看病も有けるを、如何に下賤の者とて、斯く仰山に唄ひわめくものかと、
ひそ/\咄散けるを、重き枕より屹と聞咎られ、如何に女共左な申なよ、此一両年一統不作にて、
何方もひそまりかゞみ、のどやかなる咄もなく、潜り居ける其中漸く今年此春作少し熟しける故に
や、今の如く快く唄ひ歩て樂ものも有者を、嬉しき事と歓びこそするべきに、此隠居が病の苦とて、
何の遠慮の有べき、又遠慮すべきものにもあらず、かまへて左様の事申すなと、かたの如く戒められ
けるとぞ、今はの際迄斯の如く國中に身を委ね、心を留められける志の程計るべし 下略○行状の一本を抜す
一、公平太左衛門を御見込遊ばされ候一條を聞しに、隆徳院様御逝去後、御喪中に在せられ候節、折
節召出されしに、或時御用人以下、御側の衆に至る迄、召集られて御酒など下されけるに、平太左衛
門も御用人にて其座に列り、右の御酒を頂戴不士、強て御断申上て曰、當時は差kねど頂戴仕候譯にて
ござなく、禮に叶不申、遂に頂戴せざりしとなり、是を以て公其正しきを御見込遊されしとぞ、固よ
り才徳全備の人なれば、ヶ様な事は、其一端にて擧るにも足らねど、明君の光□格別と感じ奉りぬ
上林政朝所著落穂集附録
御存じ織田信長の天下所司代といわれた、村井貞勝の子孫である。
百五十石 村井虎之允
一、先祖村井長門守儀
信長公江被召仕五万石拝領仕天正元年七月
京都所司代相勤居申候処同十年六月
信忠公御生害之節戦死仕候 長門守實子
村井作右衛門儀様子御座候而其後切腹仕候 右作右衛門
嫡子村井左太郎幼少之自分依縁類前田
徳善院玄以元江育置被申候処
秀吉公御成之節右左太郎儀訳有之者之儀
委細を聞召天正十五年三人扶持即座ニ
御朱印被為拝領于今所持仕居申候
秀吉公御他界之後縁類堀尾山城守殿ゟ
合力等有之浪人分ニ而京都江居申候処法躰
村井道以と相改申候 右山城守殿御死去之後
妙解院様ゟ御懇意之筋目ニ付初代右道以儀
寛永年中當御國江被召寄同十一年御知行
三百石被為拝領一生浪人分ニ而被召置候道以
忰三人村井作右衛門江同十二年御知行貮百石
同十三郎江御知行百五十石同長兵衛同十六年
御知行三百石被為拝領其後従
真源院様三百石御加増被下都合六百石ニ被
仰付其後右十三郎長兵衛両人共家断絶
仕候 右道以病死仕候ニ付忰作左衛門江下置候
貮百石被召上父道以江被下置候三百石直ニ
二代目作右衛門江被為拝領候
一、右村井作左衛門儀江戸江茂罷越相勤寛文
十年御鉄炮三拾挺之添頭被仰付當然之御番
長崎江之御使者等相勤延寶五年十月如願
隠居被仰付候
一、三代目村井十郎右衛門實は加賀山主馬末子ニ而
明暦三年御中小姓被召出寛文二年村井
作左衛門養子ニ被仰付延宝七年江戸御留守詰
被仰付元禄二年佐賀関御番被仰付翌三年
十一月罷帰同七年御番御目附被仰付同十一年
如願隠居被仰付候
(以下略)
谷口克広著「信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝」によると、p186に「生き延びた村井一族たち」があるが、佐太郎(道以)については触れられていない。しかしながら村井播磨守長勝なる人物は前田玄以の下代として活躍したとされる。佐太郎が幼少時、前田玄以の許にあったというのは、長勝なる人物の肝いりによるものであろうか。大変興味深い。
一、霊感院様(重賢)御代、明和年中、江戸大火の節、已に御隣家迄焼來候へ共、上には少も御騒遊されず、御仕
舞遊され候て、御座遊され候由、さて龍の口も御焼失に及び、未だ火しずまらず、盛に焼ける中、
御國元へ御飛脚立けるに、御物書其状を認けるに、手ふるひて一向書けざりしかば、堀大夫左様の不
埒の事やあると云て、おつとつて書れける故、矢の如く速に相認め、平生紙面よりも猶見事なり
とぞ 雲从堂秘話 おっとる(押し取る)という古語、熊本では現在でも使われている。
一、堀大夫居間の庭には、田を作らせ、則百姓共作す様に、草も一番、二番抔と取、其外少も替らぬ様に
作らせ、朝暮に其様子を見られて、ためし申され候由となり、又作る實の悪き時は、夜人知らぬ様
に起て袴を着、手水を遣ひ、獨表居間に出られ、何を祈らるゝとは知らねども、夜明る迄も屹度すわ
り、何かい祈らるゝ様子となり、又家来下々に至る迄、脇へ出て誇がましきこと無き様にと、毎月初に家
司役、目付役呼出され、厳重に示され候は、御家老を我勤め居る也、家來共が自ら御家老の様に思
ふてはならぬぞ抔、申されしと也 同上
一、堀殿、或時政府より笞刑に用る杖を駕の内に入れて歸られ、玄關より自身提て奥に入られ、老女へ
今日は辰次家来手島孫之丞子に馳走をするぞ、肴抔出し酒を呑せよとて、十分酒肴をたべさせ、よき機嫌に成
りたる時、右の杖にて我尻べたを一パイに打てと申付らる、恐れ憚りながらも酒のいきにて一パイに
一打々ければ、今一打々てと申さる故、又打ける、其時辰次十四歳にて子供心に思ひし事、今に忘れ
ずと、七十餘歳にての咄を勝野某聞ての話なり、大夫御政事を大切にして、人を用らるゝの厚きを、
此事にて知るべきなり 遺秉集 尻べたという言葉はさすがに最近は使いませんが・・・熊本弁かと思っていました
一、學校起りし時、文武に付ての賞罰取調、堀勝名より伺ひ奉しに、公受ひき玉はず、家中の者共兼々
禄を遣し扶持し置事何の為ぞ、文武の業をも勵み、治亂の用に立ん為なり、然れば文武をなし、異
日國家の用に立んと、銘々心懸るは士の家業、當然の事なり、夫を精出したりとて、改て賞するに
及ぶべき事かはと仰せられしかば、勝名猶申上げるは賞罰の二つの相離るべからざる公の知し召所也
今師の教に従はず、文武をも怠り、或は倡ひ玉ふ公の旨に背き、館榭にも出ず、打過る者あらば、
必罰なくんば有べからず、又公の旨に従ひ、師の教を守り、文にも進み、蓺術をも上達せんには、
賞なくして叶べからず、館榭を建て、文武を倡ひ玉ふに、賞罰を以て褒貶をせずんば、倡ひ玉ふ
主意立難かるべし、殊に罰ありて賞なきと云は、勝名等が知る所にあらずなど、様々に争ひ奉り、
日々に罷出て、凡三日程争奉りしかども、堅く前説を取玉ひて、終に受ひき玉はざりければ、勝
名も力及ばず、重き職掌をも命ぜられし身の、斯く申事をも用ひ玉はざる上は、職を辭するの外ある
ベからずと引入しかば、公此由を聞召驚せ玉ひ、今平太左衛門が引入てなるべきや、意地強気男な
り、ヨシ/\先の事は負てとらする程に、早く出て勤むべしと、人して仰遣はされしかば、勝名も
本の如く働たり、此事いつとなく漏聞えて、素餐を耻ぢ、文武の賞の有難さ、一しほ増て一統國家の
用にも立たまほしく勵み合ふ士風とはなりぬと、辛島翁の物語なりき 聞まゝの記
一、堀執政の事は、銀䑓遺事に委しければ記すに及ばず、されども人の語傳へぬ聊の事を、一二思出し
ぬ、田中某と云御醫師、五月の比、執政の許にて、時ながら日和にて私共病家を廻候に仕合と申けるに
執政眉をひそめて、其方は日和を好まるれど、ヶ様にては百姓共難儀なるべしとて、長大息せら
れしとて感じ語りし、實に執政の心なり、一ッ事を以て推量るべし、執政容貞厳にして深密に瓣舌静な
りし、いつの事にや君意に違ひて怒り玉ひ 紫翁に其事物語玉ひければ、御意に違なば御手討
□□□□御請申て、執政に参り、逆鱗甚し、かくせよと申せし時、少も驚く體なく、只謹て黙然た
りと聞、實事なるや疑し 残疑物語
![]() |
海の武士団 水軍と海賊のあいだ (講談社選書メチエ) |
講談社 |
内容(「BOOK」データベースより)
一、瑞雲院殿環山日長大居士寛政五年癸丑四月廿三日○寛政甲寅夏四月孝子太簡建墓石文墓本妙寺山中にあり
一、平太左衛門殿は形儀正しき人にて、寄合抔の節、袴をぬぎ置れ候を、腰板と前を打取拂候へば、ひ
だ一つもたわれず、皺とても無之由 鎌田氏記録
一、平太左衛門殿、執政の時分、群議沸騰致し、間には打果に参申候筈の族も有之由抔に付、継家抔甚
以て致氣遣、用心致され候様にと、心を付候節、平太左衛門殿噂の趣に左様な志の人至候はゞ、老
年ながら相手になり可申とて、少も騒れたる氣色なく、改革相済たる由 同上
一、平太左衛門殿へ茶杓を頼し人有けるに、易きことなり作りて差出可申とて、約束致され、數年を經
れども、作て遣し無之故、頼し人も繁勤彼是にて、定て失念致されたると存居候處、數年の後、作り
て遣され、何角の故障ゆゑ延引致候段申され候由 同上
一、平太左衛門殿隠居打立れ候折節の咄に、来年御下國の上にては、隠居可致存年に御座候、何ぞ心
懸も無之候へども、自然何事ぞ有て、御人數差出され、何れも勇進んで罷越候節、奉公御断申上、
隠居仕居候身分にても、出陣の行粧をながめて計りは居られ申間じく、其跡に至り何分たまり兼可
申、されば隠居も甚致したむなき由、追々子弟衆へ咄し申されけるとなん 同上
一、右同人放生會の日、何方へ参られ候や、夕方歸宅の砌、勢屯の方、殊の外賑かなる様子なり、歸る
/\丹右衛門殿初何れも出向の處に、あの物音はいかに籠城抔致し居候時、敵方より塀下に詰寄
あの通競懸り申候節は、嘸々打て出、一戦仕度事に可有之、其方共も極て左様に存ずるにて可有之
と申され候處、丹右衛門殿は左様の時節出てもよし、不出もよしとの事ならば、私は罷出申まじくと
申され候へば、殊の外不興氣にて暫は對面も許れず、目前を構置候由 同上
一、右同人山鹿在へ猪狩三日迄終日無休息狩申さる、狩に出候面々、何も草臥、及難儀候へ共、翌日も
狩可申との事ゆゑ、丹右衛門(嫡子)どのには、ヶ様にきつき事計致候て、何の面白きこと有之べきとて、
先に罷歸られ候程の事なり、右等の事にて甚立腹、翌日は彌以て狩可申、何れも早く相仕舞、山に赴
き可申、申觸られ候に付、何れも大に迷惑致し、色々と及讃談、川狩ならば苦労も少く可有之との
儀にて、御郡代より山狩は何れも大に草臥、難澁仕候間、川狩の手當仕候ては、何程に可有之哉と
相伺候處、不恠不機嫌にて、拙者は此節は山狩に罷越申候、川狩は川狩に罷越候節致可申との事なれ
ば、何申事も相分不申、難儀ながら又々山狩に出申候由 同上
一、諦了公(齊茲)御初年の比、平太左衛門殿、竹原勘十郎両人を召出され、御前に於て蕎麦切の御料理下置れ
候、此砌寒氣の時分、夜中に至り別て寒さ強く強相成候間、平太左衛門儀は老齢の事も之あり、膴々
氣削可申との御意にて、之を着候へとて、召させられ候羽二重の綿入御羽織を御手自ら下置れ候、
平太左衛門殿難有奉頂戴、御次にて肩衣を取り、右羽織を直に着用被致候、後退去の節、御取次
井上平八へ申聞られ候には、今晩は寒氣強き折柄にて、老人膴氣削可申との上意にて、羽二重御羽
織拝領させられ、誠以難有仕合に奉存候、然處御國中末々には、斯寒夜に、如何計凍候老人も可
有之哉難計、乍恐御目前に罷出候拙者事迄、御心にては萬民の飢寒に差逼候もの御存知遊ばされず
候にては、難相済事に付、序もあらば右様の處は貴様方より申上られ候様噂有之、退出に相成申候
平八右様の序と申候は間遠しとて、直に御前に罷出、平太左衛門演舌の趣委申上候處、甚御感心遊ば
され、勿論御目前に罷出候、平太左衛門迄に不限、御國中末々の儀も、御氣に付せられ候段、御意遊
され候事 同上
一、葛西彦四郎 今源左衛門親なり 家督の比、堀平太左衛門どの、其頃隠居にて本莊に居られしに、彦四郎に参
るべしと申遣さる故、彦四郎は何事やらん、家督即下の事なれば、定て主家(有吉家)の家政の事にても尋ら
るべしと、内心は心しらべして参りしに、例の通相應のゑしやくにて、酒など出し、少し厳重にし
て申されしは、今日召遣し候も餘の儀にあらず、返すべき事のありける故也、夫は其以前京町の屋
敷に居し時、今の藤崎作右衛門屋敷 御親父何某ひたと申聞られ候は、人は忠信の二ッに非れば、一日も立べからじ
別して君に仕、大職に居者は、暫も之を忘ては、たとへ何程の知恵才覺ありたりとも、何の役にも
立ことに非ずとのこと、某も殊に身にしみて覺候へば、不断忘不申、今日に至候、今迄の内は不才
の某不怠過何程をか仕出づらん、されど忠信の二字に闕たることあらざれば、今無忝仕へを致
したり、貴様家督に相成、殊に有吉家にては重き家柄に候へば、別て此忠信の二字大切也、某隠居
の身なれば、今貴様へ此二字返置申候、必疎略し玉ふな、是亡父の言なれば、かまへて/\忘却
あるべからずと、深く戒められしと、或人の物語に聞り 高瀬氏著随聞録
一、堀大夫江戸より歸着の翌日、桐油しらべにて損したるは繕ひ、油引直し等、定例の由なり 同上
一、田沼公全盛の比、堀大夫家來を暇遣し、田沼公に徒奉公致候由、依之公邊の事早く知られし由なり 同上
現在熊本城内にこの波奈之丸(なみなしまる)の御座所(他)の部分が展示されている。豪華な飾り付けがなされて往時の藩主の船旅の華やかさを知らされる。
この図は昭和37年より修理工事が為された折の、「重要文化財細川家舟屋形修理工事報告書」に取り上げられている波奈之丸の全体図である。
進行方向左から御茶風呂、御座所、次の間と並んでいる。この部分のみで7.7mだとされるから、この絵図から類推すると波奈之丸の全長は約31.5m程と考えられる。瀬戸内の海を御供の船数十艘を伴って優美な姿を見せていたのであろう。