明治初期の長六橋 昭和2年に完成したトラスタイドアーチ橋 平成2年完成の現在の橋
江戸時代熊本市内を貫流する白川には、この長六橋が唯一という時代が長く続いた。安政年間安政(安巳)橋が架けられた。
長六橋は慶長六年加藤清正によって架けられたので、その年号から名前が付けられたとされている。もっとも明治初期の写真のような橋ではなかったと考えられ、資料には梅雨時には解体する仮設橋であったらしい。橋が度々流され舟橋であったという記録もみられる。
白川の大洪水は、慶安9年(1650)、寛政8年(1796)の大洪水は最大級のものであったとされ、そのほか元禄9年(1696)・元文元年(1736)・文化13年(1816)にも死者が出る水害となっている。以下にあげる文章は寛永17年(1640)に書かれた奉行日録の抜き書きである。
寛永十七年八月五日
一、長六はしわたし舟ニてハ御不自由ニ候間舩はしかけ候事ハ
成間敷やと小内膳(仲光氏)を以被仰出候事
御請ニ舟はしノ儀手間入申間敷由申上候事
同七日
一、長六橋之渡り舟はし之儀小内膳を以得御意候へ共明日
早々より舟はしかけさせ候へと被仰出候事
同九日
一、長六橋いつも今時分かけ夏ニなり候へははしをとり申し候来
年ははかれ次第に其まゝ置候て見候へと可申付由御意ニ候
其まゝ置申ニ付いつもより造作まし分ハ此方ゟ加勢仕候
様ニと被仰出候由奉り 奥田権左衛門
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参考 山口県防府市 宮市舟橋 佐波川 片頭船6艘、橋脚ナシ、手摺りアリ 寛保2年(1742)架設、大正7年流失。昭和16年撤去とも。