津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ロゼッター・ストーン

2011-11-21 16:45:43 | 徒然

 「先祖附」と検索で打ち込むと、ヒットするものは殆んど熊本藩に係るものばかりである。つまりは全国共通のものではないということである。
他藩を見ると「先祖由緒(書)」といったもので、そのほかにもいろいろ言い方があるのだろう。

 熊本藩における先祖附の始まりについては先にブログ「先祖附の提出を命ず」で書いた。
         http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/s/%C0%E8%C1%C4%C9%ED%A4%CE%C4%F3%BD%D0

繰り返しになるが、正徳四年四月に作成の命令が出され、現在我々が目にする先祖附--細川家北岡文書(永青文庫蔵)は、宝暦ごろ編纂されたものだという。

大概のお宅のものは曽祖父、祖父、父、私儀などと書き込まれているものを、後に張り紙をして初代、二代、三代、四代などと書き換えられたりしている。
つまりは上記事例からすると四代目の当主がこれを始めて書いて藩庁に提出したことが判る。次の時代の人が初代、二代という風に書き換えたというわけである。初代からすると相当の時間が経過しているから、いささか首を傾げるような事例も見られる。又、先祖の事については良くわからないとするようなものもある。代々の当主が書き加えて行ったのだろうから、ご先祖様の筆跡に触れることにもなる。先祖附をお持ちでないお宅は沢山有り、ご先祖探しをし先祖附をお送りすると、夫々の皆様の感激振りがこちらにも届き感動すら覚える。ボランティアでやっているから、いろんな面でいささか疲れることもあるが、これがあるからやめられないという訳ある。

あるお宅に先祖附のコピーとともに、一部分を読み下したものをお送りしたら、これを「 ロゼッター・ストーン」だと言って下さった。
相当量の読み下しにチャレンジされることになるようだが、わたしのささやかな「
 
ロゼッター・ストーン」がお役に立つことを願っている。そして古文書の世界へ更なるステップアップを御願いした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤孝事記に於ける一部の矛盾・・(ニ)

2011-11-21 15:57:16 | 歴史

 飯河妙佐についてである。先の略系図(11/20掲載)によると、清原宣賢の子清四郎(義晴奉行衆)の子として登場する。
これがどうも合点がいかない。妙佐は宣賢の第七子として多くの研究者が認めるところであるが、この「藤孝事記」の書き様は如何なることであろうか。   http://www.tessen.org/archive/files/2011/02/179.pdf
単なる書き間違いなのであろうか。そうであると「藤孝事記」の信憑性が危うくなってくる。

「細川幽齋-戦塵の中の学芸」所載の、小川剛生氏の勝れた論考「細川幽齋-人と時代」などは、この「藤孝事記」を史料として居られるから一層強く感じている。しかしながら先のブログに書いた宮川殿と幽齋が同母姉弟とする「藤孝事記」の記述については、是は無視されており、「幽齋の兄・姉として有名な三淵藤英や宮川尼(若狭国人の武田信重室・英甫永雄の母)はこの智慶院の所生となる」とわざわざ記述されている。これでは出典史料のいいとこ取りと言われかねないのではないか。一言宮川尼に関する「藤孝事記」の記述は間違っているとされるべきではないのか。

いずれにしても、山田康弘氏の論考「細川幽齋の養父について」が発表された跡の鮮烈なな印象が残るだけに、種々の論考が完璧なものであって欲しいと思うが故である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハマスの息子

2011-11-20 16:30:39 | 書籍・読書
        ハマスの息子

         幻冬舎

             この本は購入したわけではありません。
             今日図書館に出かけた折、真正面に新刊書として並べられていたので迷うことなく借りてきました。
             わたしは意外とこのような本も好きなのです。
             日本の近世史ばかり読んでいるわけでは有りませんヨ。

             「スティーブ・ジョブス」も読みたい本ですが、これは長男が購入して現在読んでいますからお正月にでも
             借りて読むことにします。
             息子からいろいろ薦められている本も在るのですが、なかなか時間が取れません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤孝事記に於ける一部の矛盾

2011-11-20 11:27:05 | 歴史

 「幽齋公の養父について」が発表されて以来、今まで語られてきた元常公を養父とする説が大きく揺らいでいる。実父とされる晴員公についても「藤孝事記」の「舟橋家記」の記述を信用すると、ありえない話となる。
略系図が次のようにある。

             兼倶---+---宣賢---+---業賢---枝賢
                   |         |
                   +---兼致   +---兼右---兼見
                            |
                            +---智慶院---幽齋
                            |
                            +---三淵伊賀守(晴員)内室(養源院)
                            |
                            +---平野大炊助
                            |
                            +---清ノ四郎---妙佐

 ここでは幽齋公を公方の「御子」とした上で
細川刑部太輔へ養子ニ被遣後ニ刑部太輔実子出来ルニ付、公方へ御取返シ候て三淵伊賀守智慶院ノ妹(養源院)婚タルニ付、三淵へ御預、其後幽齋十六歳ノ時、公方伊勢へ御出奔ノ時、幽齋御供ニテ御奉公之功有之由ニ候

つまり「細川刑部太輔の養子となったが、刑部太輔に実子が誕生したので公方が取り返し、生母智慶院の実妹(三淵伊賀守晴員・内室養源院)に預けた」ということになる。この記述からすると藤孝が単に三淵家預けられたということになり、晴員の子とする説は成立しないことになる。

其後少之間西ノ岡ノ長岡ヲ知行ノ故、在名ヲ付被申候 後ニ細川刑部太輔跡断絶故細川ニ成被申候由承候

藤孝の細川の名乗りは長岡の名乗りより早く、この一行は説得力に欠ける。
そして次の一行はなんとも理解に苦しむものである。

此幽齋姉宮川モ智慶院ノ子ニテ若狭ノ国宮川ト申大名へ婦入、十八ニテ後家ニ成被申候由ニ候、此子ハ建仁寺ノ雄長老也

この宮川なる女性は、武田宮内少輔信重の室となった人であるが、智慶院は幽齋を宿して将軍家を下った人であることからすると、実姉とするには大いなる疑問である。

これらの事は舟橋枝賢卿の娘・寿光院が幽齋と兄弟(ママ)のように生まれ立たれ、よく覚えられているというのだが、このことについては先に「寿光院と壽光院」で触れたので参照いただきたい。
             http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/s/%D4%E8%B8%F7%B1%A1

元常を刑部太輔だとする根拠は嵯峨真乗院が提出したものがあったとされるが、明和四年の大火事の際大工町の屋敷が類焼し失われたとされる。「幽齋公の養父」について、さらなる史料によっての補強が必要と思われる。一方「藤孝l事記」もこのような疑問を包含した史料であることを承知しておくべきであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴崎の「お舟歌」 その後

2011-11-20 08:58:40 | 徒然

 ある方のご尽力で鶴崎の「お舟歌」の全貌が判かってきた。先に鶴崎町史の掲載文をご紹介したが、これらを含めると70以上の歌詞が存在するようだ。まだ詳細を発表するにはいかないが、大分市在住のN氏が「お舟歌」にかかわる著作を上梓されたことが判明した。
二・三の皆様の思いがけないご好意により知りえたことである。感謝申上げたい。

 現在ご本人に宛ててお手紙を差上げ、非売品であるこの本の入手方を御願いしている。
地元鶴崎のみならず、熊本に於いても是非目にすることが出来るようにと強く思っている。
祈るような気持ちで、よいご返事をいただけることを待ち望んでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後水尾天皇 (中公文庫)

2011-11-19 14:34:36 | 書籍・読書
     後水尾天皇 (中公文庫)

       中央公論新社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文庫本でお安く読む 「慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り」

2011-11-18 20:37:24 | 史料
慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代 (新潮文庫)

                              新潮社

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤孝公料紙の調達

2011-11-18 09:50:31 | 歴史

 藤孝公には書物を読むための油が切れ、ある神社の灯明用の油を盗んで勉強をされたという逸話がある。
「藤孝事記」に次のような一文があるが、手許不如意で料紙を買うのにも苦労をされたらしい。

幽齋様御若冠之比ヨリ和哥ハ不及申、文学にも御志アツカリシカ、御勝手アシク書籍を御調被成候助モナシ、仍御鉄炮ニテ鳥ヲ御打被成り、其鳥ヲ御草履取ノ何カシニ被仰付御ウラセ、ソノアタヒニテ料紙ヲ御モトメ被成、書物ヲ御手ツカラ御写シ被成候ト承及候

このような言い伝えに、この草履取りとは一体誰かというお尋ね(忠興公カ)に、牧丞大夫が「ソレハ多分大塚源左衛門ニテ可有候」と返事している。

其子細ハ幽齋様へ最初ノ御奉公人ニテ初ハ御草リヲ取、後ニ御知行被下候ト聞及候、彼源左衛門ハ只今隈本御鉄炮ノ添頭ニテ侍ル大塚甚右衛門為ニ者祖父、大塚忠兵衛入道当帰斎為ニハ父ニテ御座候ト答ヘ申候事

侍帳をみると次のようにあるのだが、源左衛門なる人物は居ない。又左衛門の事であろうか・・・・

     又左衛門  丹後御入国以前より御奉公、於豊前知行百石拝領
     当帰斎 【田辺城籠城・源次】 
           丹後御召出、光寿院様へ御附被成候、初は忠助後ニ源次郎と云、
           朝鮮御陳ニハ、射手の人数之由、剃髪して長庵と云、御伽の列にて相勤、後御意に
           よりて当帰斎と改申候 (綿考輯録・巻五--大塚源次項)
         
御医師衆御伽衆御茶湯衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
    1、甚右衛門  原城にて功有、弐百石被下
         一番長岡右馬助組 二百石 (真源院様御代御侍名附)

         二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)

 甚右衛門の孫が著名な儒学者・大塚退野である。後の横井小楠の実学党の思想形成に影響を与えたといわれる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご恵贈御礼 日本史史料研究会研究叢書8 史料集「柴屋舎文庫」所蔵文書

2011-11-18 08:54:36 | 史料

                                       

                                   http://www17.plala.or.jp/t-ikoma/index.html

 近世史家で赤穂義士研究家として知られる畏友・佐藤誠氏から、上記タイトルの史料集を御恵贈たまわった。日本史史料研究会の研究叢書8 となるもので、柴辻俊六氏が所蔵される中世文書18点、近世文書28点が紹介されている。こういう貴重な史料が私蔵されると、なかなかお目にかかれる機会が無い。

細川家関係では、細川三齋が牧左馬允に宛てた印判状、また同じく三齋が目医師槙島慶圓宛ての書状が掲載されている。
又、菊池武澄証判有間澄明軍忠状(平正九年)などもある。

その他の書状もまさに一級資料であり、このような形で拝見できることは嬉しい限りである。発刊に努力された皆様に敬意を表したい。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筆耕

2011-11-17 16:35:53 | 徒然

 浪人に限らず禄の低い侍などは内職にいそしんでいたことは周知の事だが、我が家の先祖などはなにを内職としていたのだろうかと思ったりする。「筆耕」という職業(?)があるが、これなんぞは勉強にもなるし案外良いかも知れない。

 次元が違う話だが、幽齋公はあちこちから頼まれていろんなものを書き写して与えておられる。一部ご紹介する。

        ・若狭侍従(木下勝俊)             伊勢物語       文禄五年夏
        ・吉田のむすめ(吉田兼治室・伊也)      同上
        ・木下右衛門大夫                つれ/\草 
        ・吉田ノ浄性院サマ(吉田兼治室・伊也)  竹とりの物語    慶長元年十二月  

 木下勝俊は歌道の弟子、弟・右衛門大夫は娘・加賀の聟殿延俊であり、秀吉室高台院の甥であり兄弟である。
吉田兼治室・伊也は一色義有に嫁ぎ、幽齋・忠興親子に義有を殺されているが、兼治に再嫁多くの子をなし幸せに暮らした。
幽齋の心使いがみてとれて微笑ましい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

是非とも復刻を・・・

2011-11-16 18:35:29 | 書籍・読書

 昨日久しぶりに戸田敏雄著「戦国細川一族-細川忠興と長岡与五郎興秋」を読んだ。私が持っているのは昭和57年2月10日の初版発行のものだが、写真でご紹介するようにかなり読み込んだので、表紙はボロボロ状態である。

色々な方に、この本をお読みなさいと申上げているが、大きな図書館でもないと所蔵されていないようである。
「日本の古本屋」を覗いてみるが、随分長く見受けることが出来ない。一度ヤフーオークションに出品されたのだが、随分高くてその時は買おうという気にならなかったのだが、今にして思うと残念のきわみである。

貴重な本なのだが、「お読みなさい」とお勧めしている手前、貸し出しをして差上げようと思うのだが、今手持ちの本は御覧の如くだし中はいろいろ書き込みや赤線が引かれておりこれはアウトである。

こんなに内容の充実した本は中々見受けられないし、なんとか復刻に至らないかと念じている。

追記:アマゾンを検索してみたら7,350~19,800円で四点の中古品が出ていた。やはり高い・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長岡姓を賜る

2011-11-16 07:32:16 | 歴史

細川家家臣の主だった人たちが長岡姓を賜るのは、細川家の豊前入国後慶長六年七月七日だとされている。「於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応、御能仰付、各戦功御感賞、倍士(陪臣)迄も功有ハ御目見被仰付候」と、「御饗応之席」が設けられた。村上八郎左衛門・薮内匠・益田蔵人らが「一座被仰付」られ、「若き面々ハ御給仕いたし候」とある。与五郎(興秋)や有吉与太郎(興道)らもこれに加わった。

 玄蕃殿(五千石)、松井(五千石)、有吉(三千石、五千石とも)、加々山庄右衛門(弐千石)、牧新五(弐千石)、沢村才八(千石)ら六人に無役の知行が下された。

 この折、長岡姓を賜ったのは次の人々である。
・松井新太郎(興長)長岡式部少輔
       父佐渡守は「世に知れたる者なれはは名を替不被遣候」とある
・有吉四郎右衛門を長岡武蔵守
       「古の武蔵坊(弁慶)にもおとるまじ」とある
・米田与七郎を長岡監物興季
・沼田小兵衛を長岡勘解由左衛門
・篠山与四郎を長岡肥後忠直
       のち父飯川豊前とともに誅伐される。忠興二男興秋出奔にかかわってのことかと考えられるが、真相は闇の中にある。

又、名を改めるようにとの沙汰が在ったのは次の三人である。
篠山五左衛門を飯川豊前
・加々山少右衛門を加々山隼人興長
・牧新五を牧左馬允興相         とした。

 

時代の特定が出来ないが次の人たちも長岡姓を名乗ることを許されている。
      ・長岡河内   村上八郎左衛門景則      忠興公死去後離国
      ・長岡信友   織田信雄男、後柏原藩主織田高長
      ・長岡孝以   中院通勝男            後、嵯峨氏(細川家家臣)
      ・長岡元信   南条元信 細川興秋女婿    絶家
      ・長岡伊賀守  三淵好重・・幽齋公末弟     四代目にて長岡姓返上三渕姓となる

尚、細川一族については連枝は細川姓、一門は長岡姓となった。
忠興公長子・忠隆公(内膳家)、五男・興季公(刑部家)は一時期細川姓であったがのち長岡姓となった。いわゆる一門払いの結果によるものであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和本のすすめ――江戸を読み解くために

2011-11-15 18:53:30 | 書籍・読書
     和本のすすめ――江戸を読み解くために (岩波新書)

                岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時枝氏・宮成氏のこと

2011-11-15 08:26:17 | 歴史

 

 かって我がサイトには「他力本願的」という冠がついていた。人様のお助けをいただきながらサイトを運営して行こうとの思いがあった。
ある時これじゃあ進歩が無かろうと冠は外したのだが、内容は一向に変わらず人様のご好意に甘えるばかりである。
であるならば、ご提供いただいた貴重な資料を公開して皆様にご披露するのが勤めであろうと認識している。
今般は時枝平大夫に関する貴重なデーターをお送りいただいた。いつもながら快く公開をご承諾いただいた埼玉在住のTKさまに深甚なる感謝の意を捧げるところである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (1)

■「明治八年小倉縣華族宮成公矩家系書上」
 
〔公通長子〕公建
天文十一年七月晦日補大宮司
〔中略〕
文禄元年十一月三日卒
 
〔公建長子〕公里
補大宮司
〔中略〕
永禄十年正月十三日依無嗣子以時枝隆令二男長松丸為養子
譲与大宮司職之後卒
 
〔公建次子〕隆令
時枝家相続
号時枝備後
 
〔公里嗣子〕公基
任大宮司
号右衛門督
童名長松丸
天正十年正月五日嫡子松千代丸譲与大宮司職
属黒田長政之幕下
改姓名称黒田吉右衛門政本
時枝隆令男公建孫也
 
〔公基長子〕松千代丸
仕大宮司
生慶長元年
早世
 
〔公基次子〕政吉
於黒田家出生
号蜂屋阿波守
 
〔公基三子〕某
同上〔於黒田家出生〕
号黒田蔵人
 
 
■「慶長年中士中寺社知行書附」
 
菅六之助組
一、三千石 古譜代 時枝平太夫重起
 
桐山孫兵衛組
一、千石 古御譜代 黒田安太夫 名公興 父吉右衛門正時
 
■「慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限」
 
菅六之助組
一、三千石 時枝平太夫
 
■「元和九年十二月改分限帳」
 
宮崎藤右衛門組
一、四百石 平太夫弟 時枝次右衛門
 
■「元和初年人数付」
 
宮崎藤右衛門組
一、四百石 時枝次右衛門宗安
 
以上
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (2)

なお、豊臣秀頼と共に自害した伊藤武蔵守の妻女が大坂落城後、実家の広島に落去して、
平産した子は福島家臣蜂屋将監より苗字を譲られ、蜂屋市兵衛を称しています。
福島家に行った黒田蔵人の実兄蜂屋隠岐〔阿波守と同一か〕につきましても、係累が気になる所です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

室蘭民報に・・・

2011-11-14 21:18:10 | 新聞

 

 サラリーマンエッセイスト近藤健氏は今年の春、北海道の室蘭に転勤された。もともと北海道生まれの道産子だから故郷に錦を飾られたわけだが、早速このように新聞に取り上げられていらっしゃる。新天地での新たな出会いを通じて、又素晴らしい作品をご披露願えると期待している。 
           W方向が全表示されていません。最下部でスライドして御覧下さい。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする