津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「何でも鑑定団」から

2010-10-19 18:10:41 | 徒然
 「何でも鑑定団」で古文書や古美術を鑑定されている田中大氏は、「思文閣」グループ数社の代表者である事は、諸兄はとっくにご存知のことであろう。出版業務にも携わっておられるが、それらのものはなかなかアカデミックで、このような類の出版は、正直余り儲かっては居られないだろうと、いらぬ邪推をしてみたりしている。

 そんな思文閣のサイトのなかのブログ「シブログ」や、PR誌「鴨東通信」を時折拝見している。「鴨東通信」はPDFで全文が公開されており、そうそうたる方々の論考を拝見でき有難い事である。

 いとも簡単に真贋を見極められ、軽いユーモアを交えてのコメントには定評があるが、これは「思文閣」の70年という歴史に裏打ちされたものであろう。「鴨東通信」などを拝見すると、思いの深さが本物である事が感じられる。
 
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平伏

2010-10-19 09:11:18 | 歴史
 重賢公が兄・宗孝公の不慮の死の跡を受け、肥後国の太守となるのは延享四(1747)年十月の事である。翌年寛延元年(1748)四月十八日新婚の室・由婦姫をのこして、初入部のため江戸を発する。五月廿七日に花畑館に入られた。

 重賢公の史料を読むと、この時代まで有力家臣(一門・家老等か?)の藩主に対する挨拶は、左手はひざの上におき右手のみをついて低頭するという事をやっていたらしい事がわかる。
初入部の御行列が花畑館に到着した折、礼の仕方が悪いと駕籠を止められ注意されたという。家臣は慌てふためき平伏したという。
部屋に入られ一門衆の挨拶を受けられた際も、旧礼により先に書くような辞儀の仕方であったらしいが、藩主に対する礼を失しているとして、両手をついての平伏が義務付けられたとされる。

 これは意外なことであった。
忠興はいわゆる「御一門払い」を実行し、藩主以下をすべて家臣たらしめた。
しかし礼儀として、片手をついてのあいさつが百数十年続いてきたのである。

 「平伏」とは「ひれ伏す」ということである。一門衆にたいしても確固たる意思を示し、強い決意をもって改革をなそうという重賢公の想いが強く感じられる。
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