津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

川田順氏

2010-10-15 18:24:35 | 書籍・読書

 私は昭和21年4月発行の、川田順氏著の「細川幽齋」を持っている。
川田順氏についての知識はまったくなく、この本を購入したときインターネットで検索して、「歌人実業家住友総本社常務理事」という経歴を知った。それとともに、夫ある身の「歌人鈴鹿俊子との恋に苦しみ、自殺未遂を起こし、いわゆる”老いらくの恋”と騒がれた末に結婚した。」とあり、いささかこの著作の筆致と乖離があるように感じた事だった。

 ’84年版ベストエッセイ集を読んでいたら、俳人・山口誓子の「微笑」という一文があった。
その中に川田順氏のことが記されている。
山口氏は住友時代の二年後輩で文学者としてのお付き合いもあったようだ。

川口氏が亡くなられた後、老いらくの恋のお相手である夫人から歌集が送られてきた。
その中にある短歌に、山口誓子は微笑んでいる。
            すきものと
                みずから名告る阿闍梨にて
                   わが老いらくの恋をとがめず
 この自らを「すきもの」とのたまう阿闍梨とは、東大寺の上司師という方だそうだが、すっぱ抜かれて迷惑なことであったろうが、不倫ともいえる老いらくの恋をとがめることも為さらなかったというのだ。

 こうした人柄を知って改めてこの本を読むと、「幽齋公はお堅い」といっておられるような気がしてならない。ほかの著作も読んでみようかという気にさせる。

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臼杵殿と志賀家

2010-10-15 10:07:05 | 歴史
 昨日は「青龍寺以来家来」の一人、S氏のご子孫を調べるべく、本妙寺の塔頭・智運院をお尋ねした。幸いに当初の目的を達成、ご子孫の所在を確認することが出来た。ご隠居様ご夫妻に快く対応していただき貴重なお話を伺うことが出来た。
ここにかっての大友家の家臣で豊後・岡城主であった志賀氏のご子孫歴代のお墓がある。
細川家家臣志賀氏の父・虎左衛門は戦没、室(大友義統・妹)は幼子二人を連れて肥後の菊池源川に逃れ潜んだ。加藤清正御代、「女之諸式存知候者有之候ハゝ」とて、忠広御前様へご奉公に出たというのである。臼杵と名乗ったと(先祖附)あるが、そのことを含めた志賀家に関する貴重な史料を拝見することが出来た。
「女之諸式」とは作法・礼法のことであろうが、臼杵殿は宗麟の娘であるから最適任者であったろう。「竹之丸忠広公御前様」とあるが、竹之丸に住む忠広公夫人と解すれば、玉目氏法乗院(正良及び献珠院生母)であろうかと推測している。
臼杵殿の関係者、志賀三左衛門という人が紀州に赴いたことが志賀家史料に書かれている。徳川頼宣に嫁ぐ瑶林院に付き添い、紀州家家臣となったのだろうか。
「加藤清正妻子の研究」の著者、福田正秀氏にご教示を賜りたいと思っている。

 幼子は十五歳になって城内に住むことが叶わず、吉弘加兵衛の許で養われ、忠広に弐百五十石を給わった。初代・少兵衛親勝である。加藤家没落時浪人、細川家重臣沢村大学吉重の肝煎にて妙解公(忠利)肥後入国時召しだされた。
臼杵殿やその女子についてのその後の消息は知れないが、智運院のお墓の中にそのヒントがありそうな気がする。

 10/16メールにて早速福田正秀氏からご教示いただいたが、汗・汗である。
法乗院は忠広の側室であり「御前様」とは呼ばないとの事、ご尤もなご指摘である。
大変失礼かもしれないが、法乗院は熊本の阿蘇出身の玉目氏であるから、礼法・作法の指導を受けるとすれば、この方かなと考えたのが間違いだった。
実際は、徳川秀忠養女・蒲生秀行女の崇法院が「御前様」である。
ここに訂正をしておく。 10/17追記
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