私は全く知らなかったが「曾我尚祐の母は沼田常陸介某女」とある。以下全文をご紹介すると・・
幽斎公が慶長12年2月15日に室町家式三巻を進上した事にも永井直勝と共に関わるとされる方です慶長6年に秀忠公に奉仕し「常に御夜詰に候す 尚祐かってより足の疾あるがゆえに 営にのぼる毎に乗輿して平川口より御臺所のほとりに至ることをゆるさる」と…
尚祐は慶長五年仕官で采地千石を賜る 嫡男古祐(母は瀧川雄利女)は三千石を知行するが末弟の包助の母は継室酒井忠次養女(山岡景友の兄 景佐が実父)であり幕府実力者の後ろ盾か 分家して五千石を知行することになる 「曾我流」の書礼は奥祐筆の必携として伝授されて行く事になる たまたま平川門の事で 曾我兄弟にゆかりの曾我氏が思い浮びました…
忠興・忠利代細川家と曽我氏は大変緊密な間柄である。「尚祐の母は沼田常陸介某女」とある沼田常陸介とは、藤孝(幽齋)室・麝香の父・光兼の弟、沼田光宗(常陸介・甲斐守)であろうと考えているが詳しい史料をもたず、その人となりを承知しないでいる。
藤孝(幽齋)
∥
+---光兼----麝香
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+---光宗------●
∥---尚祐---古祐---近祐
曽我某
曽我家三代について、大日本近世史料「細川家史料」によると、次のようにある。
■曾我尚祐
又六郎、又左衛門。織田信雄・豊臣秀次に歴任。文禄四年細川幽齋の推挙により秀吉に謁し足利家の舊式を言上。四百石。慶長五年徳川家康に召され千石。慶長六年秀忠に仕へ夜伽衆。寛永七年五月廿五日歿。尚忠興は尚祐女(丹波守・妹)を養女として松下民部少輔述久の嫡男・掃部助に嫁がせている。
■曾我古祐
曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。
■曾我近祐
又左衛門。権左衛門。古祐の子。寛永三年西丸小性組(二百俵)。五年十一月六日(寛政重修譜には四年としているが誤)当番の夜、楢村孫九郎某と木造三郎左衛門某と争論して刃傷に及ぶ。近祐、倉橋忠尭と共に、暗中疵を負ふも楢村を組留む。この時、父古祐書院番にて他席にありしがその状を見て加勢す。依って、二百石加増せらる。八年五百二十石。十年書院番(七百二十石)。明暦元年先手弓の頭。万治元年大坂町奉行(二千二十石余)同年六月相続(三千石)寛文元年九月十三日歿。年五七。