津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十六)子孫・(十七)キリシタン墓

2021-03-18 08:30:38 | 小川研次氏論考

十六、子孫

著者は一人の人物に注目する。寛保二年(一七四二)の黒崎代官「時枝次右衛門」である。 ちなみに同年、常春とされる「時枝長大夫」は粕屋郡代であった。(黒)
名からして、跡継ぎのいない平太夫鎮継没後、長政に四百石で召し出された弟次右衛門の系列とみる。(「元和分限帳」)
代官次右衛門は当然、黒崎にて平太夫夫妻の墓所のことを知り得たと思われる。
常春訪問の三十年以上前に次右衛門は先祖の墓について調べていたのではなかろうか。
常春の記録にも「近年古敷書付出、云伝へと云符合しければ、常春公今度庿参し給ひ、御塔所いさぎよく修補致し給へば、御霊益あらたならん、」(「遠賀紀行」)とあり、先祖について調べていた。

次右衛門は代官時代には墓所に行き、手入れをしていたが、任を解かれ黒崎から離れること三十年近くなった。そこで隠居後に再訪することにしたと推測すれば、常春は「時枝次右衛門」であったとも考えられる。 

しかし、現在の供養塔は常春とは同族別系の時枝家による建碑とみられる。
時枝重記供養塔は重記(鎮継)を祖として八代目の清七鎮安による。正面の戒名「松嶽院殿御霊前」の裏面に「文化三年(一八〇六)寅十月九日依于 二百年回重記公八代之嫡孫時枝清七鎮安建之」とあり、清七鎮安が二百回忌の折に建碑したものである。この時に戒名を刻んだとみられる。この供養塔は灯篭型式である。平太夫の「宇佐宮弥勒寺」を意識したのだろうか。
また、左面に「安政三年辰十月九日依于弍百五十年回九代子孫時枝中鎮遠祭之」とあり、安政三年(一八五六)に九代目の中鎮遠が二五〇回忌を記念して彫ったものである。
傍に平太夫の妻の「寿春妙永信女」と彫られた墓碑があるが、命日の横に「安政三年辰三月廿日依于弍百五十回九代孫時枝中鎮遠修之」と刻まれている。
つまり、同じく九代目の中鎮遠が既存の墓碑を補修したということである。
鎮安と鎮遠は父子と考えられる。

八代目清七鎮安は「文化分限帳」(一八〇四〜一八)「百三拾石 中庄 時枝中」とみられ、「天保分限帳」(一八三〇~四四)に「百三拾石 時枝中武兵太」とあるが、鎮安と同一人物と思われる。
九代目鎮遠は「安政分限帳」(一八五四~六〇)「百三拾石 中庄 時枝中」とある。「中庄」は現在の今泉・薬院一〜二丁目辺りである。(『福岡藩分限帳集成』)
また、「明治初年分限帳」(一八六八〜七〇)に「百三拾石 時枝清七郎鎮撫」とあり祖父の「清七」を継いでいることから、十代目と目される。

慶應元年(一八六五)に起きた「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」で、主犯格の筑前勤王党の加藤司書らが、処刑された事件であるが、この時、藩主長溥(ながひろ)から調査を命じられた目付の中に「時枝中」の名があり、九代目の鎮遠であると考えられる。(黒)

一方、弥勒寺寺務の時枝家は時枝重明(一八三七~一九一二)が継いだが、明治二年(一八六九)の神仏分離令により廃絶となった。同九年に宇佐神宮の権禰宜となり、十九年に退職、二十二年に初代宇佐町長を務めた。実兄は国学者の奥並継(一八二四~一八九四)である。(『大分県歴史人物事典』)


十七、キリシタン墓

墓碑の話に戻るが、上述の通り「時枝平太夫」の墓は存在しないのである。
実は著者はもう一つの疑問を持っている。それは、平太夫の妻の戒名である。
夫婦ともにキリシタンであった。幕府による禁教令は一六一二年と一六一四年である。敢えて仏式の戒名を入れる必要はないのである。洗礼名や姓名である。そしてクルス(十字架)である。
妻の墓碑も建て替えられた又は手を入れられた可能性はある。元はこのような加工された石材ではなく、平太夫と同じ「自然石」だった。先述の「遠賀紀行」にも「御塔銘わからざれば」とあり、妻の戒名も後年に刻まれたものである。
九代目鎮遠が「修之」時に現在の形にした可能性はある。

キリシタンとして逝った平太夫夫婦のキリシタン墓は間違いなく存在していたはずだ。当時のキリシタン葬は「伸展葬」で長墓であった。形状は伏碑である。(写真参照、大分県臼杵市のキリシタン墓)
しかし、禁教令以降は幕府は「座棺」で戒名のある立碑を義務付けた。(『キリシタン墓地調査報告書』)
やがて、禁教令により弾圧から保護するために、村人(キリシタン)たちが埋めた可能性がある。
そして無銘の自然石を建て、「村民様」と呼び、密かにキリシタン柱石の平太夫に祈りを捧げていたのではなかろうか。しかし現在、当時の自然石墓碑さえも見ることができない。
しかし、鎮継夫婦が眠る貴船神社の裏山「葉山」を望む供養塔は彼らを静かに見守っている。

大分県臼杵市掻懐(かきざき)のキリシタン墓

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■細川内記と政宗 | トップ | ■細川小倉藩(520)寛永七年... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿