「歌仙幽齋」 遺著(一)
細川幽齋の遺著としては、第一に家集の衆妙集あり、次に九州道の記と東國陣道之
記との、兩種の記行歌文あり、次に門下が聞書をしるし留めた歌論の類若干が傳へら
れてゐる。
衆妙集は、幽齋薨後六十年を經て、霊元天皇の寛文十一年(二三三一)に、幽齋の
曾孫細川丹後守行孝の請に依つて、飛鳥井雅章編纂にかかり、一二細川幽齋家集とも
云ふ。元禄四年に初めて刊行された。雅章は雅經の後胤で、應仁前後に名の顕れた雅
世・雅親などの子孫に當るが、後水尾院より古今集の奥義を傳げて戴き、もとより二
條流幽齋の傳統に属した堂上歌人である。集の内容は初めの三巻に和歌を、四巻に九
州道の記を、五巻に東國陣道之記を収む。歌數約八百首あつて、詠百首和歌及び詠二
十首和歌を巻頭に置き、次で春・夏・秋・冬・戀・雑と部立す。巻末、漢文第十一暦
季冬、雅章の跋文あり、その中に「歌數八百餘首、偶以ニ清書之本一備ニ法皇之御覧一辱
賜ニ其名衆妙集一是玄旨之集面玄之又玄之意歟、又被レ染ニ御筆一被レ下ニ外題一、法印身後
之榮、何事可レ過レ之乎、誰人不レ仰レ之哉。」法皇とは、後水尾院の御事である。幽齋
玄旨の穪は、いふ迄もなく、彼が和歌の理想とした所の、俊成の標語「幽玄」に基づ
くのであつたが、後水尾院、その穪より聯想し給ひ、玄之玄なるものの御心にて「衆
妙集」とあそばされ、外題に御染筆までも賜ふとは、まことに雅章の感激した如く、
幽齋の餘榮極まれりと云ふべし。古今の歌人中、幽齋程ほどの果報者は稀有なのであ
る。この家集に關して、佐々木信綱博士は、「就中、時に臨んで詠んだ詞書の作が多
く、これは史乘を補ふのみならず、殆ど題詠ばかりであつた。當時の家集中に、一異
彩を放つものである」と言はれた。それは按ふに、天正九年正月安土にて、八月十五
日夜關白殿云々、朝鮮國正使松堂老人の時に唱和云々、天正二十年入唐の御沙汰あり
し年の元旦に、文禄二年鹿児島にて元旦を迎へて、慶長に念八月昌山御不例のよし聞
きて云々、などの詞書、それから二種の從軍紀行の歌などを意味せられたのであら
う。又、博士は「萬葉假字を用ゐて記し、萬葉集の詞を用ゐた歌もある」と指摘して
居られる。更に博士は近世和歌史の中に幽齋の家集を概評して、「彼の歌風は、やす
らかに正しいのを理想とした二條流の歌風をよく代表してゐる。さすがにその中に、
詠み口の比較的確かなところが見えるのは、彼が當第及び後世に重んぜられた所以を
爲してゐると思ふ。古歌の趣向や成句を借り用ゐた歌もまた多い」と述べて居られ
る。
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