津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■漱石先生の結婚式の謎

2024-06-05 06:34:18 | 人物

 漱石夫人・鏡子さんが嫁入りのために父親と共に熊本に就いたのは6月8日の晩である。
プラットホームには、宿とした研屋の番頭が迎えに来ていた。漱石も来ているだろうと探してみると、しばらくしてから、二階の待合室
からのこのこ顔を出したという。

鏡子夫人の「漱石の思い出」にそう記されている。
処で漱石にその結婚についてつくった句がある。
   
       衣更へて 京より嫁を貰ひけり 愚陀仏(漱石)

漱石の孫娘(松岡未利子さん)聟である半藤一利氏の「漱石俳句を愉しむ」を読むと、結婚式は「六月九日(一説に十日)」としてある。
一方鏡子夫人の「漱石の思い出」には、九日は一休みして買い物に走り回り「どうやら間に合せものを整えて、明くる十日となりました。
この結婚が・・・」とあるから、十日で間違いないのではないか。

一方半藤氏の論拠は、漱石が子規に送った6月11日付けの手紙からきている。
「中根(鏡子夫人)事去る八日着昨九日結婚略式執行致候(中略)右は御披露まで餘は後便に譲る 頓首」として、上の句を添えた。
こうなってくると、どちらが本当なのか半藤先生ならずとも迷ってしまう。
そして結婚式を挙げたのが「光琳寺の家」の家である。藩の家老の妾の家だったというが、この家老なる人が誰なのか、それもその妾が不
義に走ったとかで手討にしたという話さえ残っている。
無礼討ちは、明治4年の太政官布告で正式に廃止されたから、この話はそんな時代の話なのだろう。
だとすれば20~30年前の事件で、この事件も、家老なる人物についても私に謎解きは出来ていない。

そんな家だから9月20日には、二番目の「合羽町の家」に引っ越しているが、次のような句も残されている。

       すずしさや 裏は鉦うつ光琳寺  漱石

 熊本の秋の訪れは「随兵寒合(ずいびょうがんや)」が訪れるという九月中旬位のことである。
案外この家を離れる時の感慨かもしれない。
この光琳寺は西南戦争で焼失し廃寺となり、光琳寺町という名が名残をとどめているが、これとて今では正式な住所表記には使われていない。

今では、繁華街のど真ん中で夜な夜な酔客が行きかう街である。

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