津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

木鉄炮とか火縄とか

2012-09-18 07:16:53 | 史料

  嶋原一揆に関するトピックである。

 寛永十五年二月十六日忠利は曾我古祐に当てた書状で「木鉄炮」を準備することを伝えている。(4001)

      三ノ丸を取 二ノ丸ニ成候ハゝ 長崎より唐人木鉄炮を誘参候 筒口差渡二尺五寸御座候故
      玉のおもさ七十五人にて持申候玉ヲ二ツこめ 又やくわんほとの玉ヲ廿五人 薬貮千五百斤
      込 城ノかたへ土井ニ穴を掘込 筒尻を地底ニあて縄ヲ永仕 十四五町ものき 火の渡り候加
      減ニ仕候ヘハ 本丸二ノ丸かけて海へはねこかし可申由ニ御座候 うしろへも城の石かきな
      と散可申候間 如何様はる/\のき不申候てハ不成由申候 か様の物を 本丸二ノ丸へさく
      を付候以後可有御申付ニ候事

   木鉄炮については「南海治乱記」に、豫州河野家で作られたことが記載されているらしい。
              http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5440.html
              http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950645

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また、決戦の日となる二月廿七日の森可成宛(忠利)書状(4067)では、火縄の話が出てくる。多忙なさなかのこととて、返事は素っ気無いがこんな配慮は大変ありがたかったと思われる。

       森可春   津川辰珍
      森采女より四郎右衛門迄之状并火縄百送給候 遠路飛脚御懇志不浅候通 被成御返書候

 

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