津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松井興長・諫言 1-1

2009-07-05 10:04:39 | 歴史
  万治三年(1660)三月、松井興長が山本三左衛門を通じ藩主・綱利に上げた諫書である。
 この年、綱利十八歳、興長は八十歳である。翌寛文元年綱利は初入国、興長は綱利の成長と
 細川家の将来に心を痛めながら八十一歳の生涯を閉じるのである。

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 君(綱利)御盛長ありて、相撲を好ませられけれハ、佐渡(松井興長)諫書を奉りける、其文に曰

一、其御地御静謐、 殿様弥御機嫌能被成御座候旨、目出度奉存候事、
一、御国にて御相撲取を御仕立可被成由ニ而、相撲取共御雇なされ、師匠二被仰付、熊本
   へ御下被成候二付、御国中在々所々二而すくやかなる人柄を選、只今相撲の指南仕候、
   就中御扶持人共、人々相撲取と申候得者、何と仕候而茂其者の心得も違ひ、町方・在方
   にてかさつ成儀ニ候へハ、何も下々痛二罷成候、 幽齋様・ 三齋様・ 妙解院様御三代、
   相撲なと一円に御寵愛不被成候而、結句御嫌ひにて、御法度ニ被仰付、 真源院様御代、
   少々間相撲折々被成御覧候二付而、乍憚私儀存寄之通、推参申上候得者、殊外御同心、
   其儘いつとなく被成御止候、細川家之儀者日本に隠れも無御座高家にて、御三代こふた
   ふなる御作法、他家にてもかゝみに仕候事にて御座候、 真源院様御若く御座候得共、万
   事御しみなる御様躰にて、御若き御人様之様ニハ人も不存、 上々様方茂左様に思召たる
   と相聞申候、殿様御若年ニ被成御座候而茂、御先代より御作法被成御替儀候、以之外之
   様に乍憚奉存候、たとへ江戸中何れ之御大名様にても、御年来に応し候而之御慰を被成
   とても、殿様御事ハ脇々に被成御搆事ニ而御座なく候、たとへ御先祖様之内、相撲なとの
   様なるはしたなる儀、又ハ下々痛ミ申様成御慰、被成御好候事御座候共、左様之不被可
   然儀者、当時ハ被成御止候こそ、御尤之儀ニ御座候、終ニ、御代々無御座候相撲を、御一
   身之御慰計に、初而御取立被成候ハ、如何敷奉存候、相撲を御好被成候と申候得者、只
   今被召抱候相撲取之者共ハ不及申、下々奉公人・町人・百姓二至迄、相撲取不申者茂ま
   ねを仕、かふきたる躰を仕候得者、見物人迄も心中も左様成行申候得者、如何ニ而御座候、
   其元より相撲取被指下、此中熊本ニ而最早申事も出来仕候、定而吉左衛門申上候而可有
   御座候、 殿様相撲被成御好候得者、御国中相撲はやり申にて可有御座候、此中も熊本ニ
   而勧進相撲を取申候、其以後勧進相撲、又ハ所々ニ而相撲取申ニ而可有御座候、左様御
   座候得者、又々申事出来可仕と奉存候、 上に御好候得者、下々御しめし方も難被成儀と
   奉存候、相撲はやり申候へハ、他国より相撲取者不及申、若きかふきたる者も見物に集参
   申候物に而御座候、公義より切支丹御改稠敷被仰付候而、御国はし/\迄、他国より往来
   之者二宿をかし申御定法ニ而、此儀ハ他国も御同然ニ而、ケ様之相撲なとに付而入込候者
   ハ、へん/\と逗留仕候、只今之躰に方々より人数入込申候得者、御国のしめし何とも可
   仕様無御座候、其上度々申事なと出来仕候得者、御仕置茂不可然様ニ世上之批判も御座
   候へハ、一大事之儀と、此所重畳気毒千万に奉存候事
                                            (つづく)
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