津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

小野武次郎の完全なる間違い

2009-06-03 07:46:11 | 歴史
 ある方から宇土細川家の侍帳について問い合わせをいただき、何となく侍帳を見ていたら「周岳院」という文字が飛び込んできた。三齋の愛妾である。三齋は周岳院の病気の報を聞いて、京都からすっとんで帰っている。綿考輯録編者・小野武次郎は「周岳院とは三齋の愛娘お万の生母小やや(明智次右衛門女)」のことだとしているが、これが完全なる間違いで「周岳院とはお万の生母小ややではない」ことが、この侍帳に書かれていることが判った。

以前ブログで「周岳院どの」を書いたが、いま一度読んで頂きたい。
    【周岳院どの】 2008年11月09日ブログ
寛永十二年九月江戸に在った三齋は、七日江戸発駕十八日京都に入った。二十三日酒井讃岐守・土井大炊頭宛て、「当地にてゆるゆると養生可仕と存候処、在所より急用申越候ニ付、今月廿三(日)罷下候」と書状を発している。その急用とは、「周岳院殿以外之煩之由」とあり「八代より注進有之候間、早々京を御立被成候」とある。続いて「周岳院殿ハ十一月十九日死去なり明智次右衛門女ニテ御万様御妾母也、少名少也々と云、五十八歳周岳院雪山宗広」とある。(綿孝輯録巻二十三 忠興公(下)p224)
 さて、綿孝輯録の編者・小野武次郎は寛政八年天授庵を訪ねている。ここには幽齋、室光壽院、忠興、忠利、光尚の石碑があり、忠利室正受院の石碑の側にある「天沢院梅渓円清」という石碑を見つけ、不思議に思い尋ねている。天授庵よりの答えは「鳳祥院様烏丸光賢卿之御簾中、三齋様之御姫(お万)之御母之儀之由」つまりお万の生母であると答えている。小野武次郎は「それはおかしい、お万様の御生母(明智次右衛門女)は周岳院と申上げる」と再度確認すると、天授庵側は「ちゃんと寺の記録に留められており間違いない」と答えている。没年の記録も間違いない。小野武次郎は納得行かない様子で、「御国ニ而周岳院と申候を天授庵ニ石碑御建被成候節、法号被改候哉、不詳」とお茶を濁して納めている。


細川家家譜によると、この周岳院は、細川立允(立孝)の養母として紹介されている。曰く「永井四郎左衛門入道宗花女、周岳院、寛永十二年乙亥十一月十九日卒、享年・葬地未詳」とある。

そして宇土細川藩の侍帳に永井良安という人の名前がある。この人の経歴が次のように書かれている。
  永井良安  十五石五人扶持 (配)中原惣太夫娘
    祖:江州志賀郡真野ニテ没   *(註) 
    親:永井四郎左衛門入道宗花、周岳院様おてゝ、慶長五霜月丹後ヨリ豊前中津へお供
      慶長六秋百五十石
    私:寛永九親名代於八代周岳院ニ被付、周岳院逝去後細川中務立孝ニ出仕
      京ニテ正保二(以下不明)
  *(註)
    私親永井四郎左衛門入道宗花儀、周岳院様御てゝにて御座候。慶長五年
    霜月ニ丹後より御供豊前中津へ参、其年より明ル慶長六年之秋迄弐拾人
    御扶持方被下御米三十石、従三齋様致拝領候、慶長六年之秋豊前中津に
    て、御知行百五十石被為拝領候。其時御扶持方上申候。慶長七年ニ小倉
    御殿主小御殿主のうへ御立被成候時、三齋様御意には、丹後田邊御籠城
    ニ付、禁中様より御あつかいニ勅使丹後へ御下シ候を、宗花頼、京より丹後
    御籠城御見廻ニ三度罷下候よし奇特ニ被思召候。関ヶ原合戦西方ノ陣相破、
    三齋様御上洛之刻、丹後より直ニ江州草津迄御迎ニ参候事、是も神妙ニ思
    召候とて、如比被仰付候由にて御座候。其後職役不被仰付候。

周岳院の父親は永井四郎左衛門であり、小野武次郎はまったく勘違いしていることが判る。
      
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