寛永九年十二月九日忠利は熊本入りした。その直後十二月廿九日江戸上屋敷が焼失している。
江戸に在る六(光尚)に対しては、正月十日付で見舞いの書状(1089)を送っている。十七日の忠利の書状(1090)でその火元が確認できる。
極月廿九日(火事当日)、正月二日の書状に対する返書である。
一、新太郎殿より火事出来候而、我々上屋敷も不残焼候由、則作事之奉行・手傳之人差下候
其方をはしめ、何も無事に下屋敷へ参候由、尤候事
この「新太郎」が池田光政である。この絵図は嘉永二年のものだが、細川家も池田家も屋敷の位置は変わっていない。
松平内蔵頭とあるのが池田家であり、まさに隣家ともいうべき火元からの類焼である。お城のお膝もとの大名小路での火事であり、大変であったろうと推察されるが、その詳細を知りえないでいる。ご承知の方はお教えいただければ幸いである。
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