津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣--坂崎家

2012-10-05 08:10:46 | 歴史

 坂崎家は藤原氏、家祖坂崎伝助は織田信長に仕え、尾州小豆坂七本鑓のうちとされ千石を領していた。嫡家は伝助の養嗣子・川崎兵庫助の養嗣子・清左衛門成政を初代とする。又伝助の息・半兵衛勝定が別禄六百石を拝領して創家している。後に千石取りとなり明治に至った。
その弟勘右衛門基之も別禄二百石にて嶋原一揆に出陣、惜しくも討死した。

この半兵衛家のご子孫からご連絡を頂き、嫡家の兵庫助成方が坂崎出羽守直盛の弟ではないかとのご連絡をいただいた。
             坂崎直盛       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E7%9B%9B
             武家家伝-坂崎氏  http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakazaki.html

直盛は本姓宇喜多氏、坂崎の名乗りは直盛を初めとして始まったとも考えられる。
兵庫助が弟ではないかとする柳生家の文書がある。柳生家は直盛とも親しく、千姫事件が起きたとき事件の処理に奔走したのが柳生である。
坂崎家の家紋であった「二つ重ね笠」を譲られて、柳生家の家紋にしたとされる。

さてその柳生家の文書は「玉栄拾遺」と呼ばれ、編者萩原信之によると宝暦八年細川家家臣鳥養市兵衛から「坂崎兵庫成るものが侍大将として三千石を頂戴している。これは坂崎出羽守成政(直盛)の弟で、元和のはじめ藩主に仕えた」と聞いて、記録に残している。
細川家は柳生家とも大変親しくしている。細川藩召出の肝煎は案外柳生家であったかもしれない。
ちなみに坂崎家に於いては「成」の文字を「しげ」と読むそうである。坂崎家は楠木正成の血をもひき、その故であるとされる。 

 

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1 コメント

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坂崎家系図 (ある坂崎の子孫)
2017-10-30 14:30:07
何よりも津々堂さんのコメントは、熊本藩の歴史を分かるため、面白くて役に立ちます。

私は米国に住んでいる「坂崎」と言う苗字の者です。親戚から聞いた事は、熊本の近辺に住んでいた先祖は、世代の順番に: うはち(?―1827)、げんしち(?-1832)、そして、坂崎うはち(1828-1913)です。この坂崎うはちの娘、じゅか(1854-1913)は、婿養子をとって、高本惣平(1852-1933)と結婚し、長男は坂崎丑九郎(1883-1947)でした。坂崎丑九郎は1907年に熊本からハワイまで移民しまして、私は孫です。

津々堂さんの説明を読み、16世紀の坂崎伝助(尾張の人)と、血統関係があるかどうかを知りたくなりました。関が原の後に、17世紀から、坂崎伝助の息子たち、初代の兵庫、半兵衛と勘右衛門は、熊本藩(肥後)の細川家臣になった後で、坂崎家から仕えた家臣は続きましたが、初代以来は、子孫全員の多少しか細川家臣になれなかったと思います。仮に、江戸時代(約10世代)の坂崎家全員(両方、家臣の方と家臣でわない方も)の中に、もし平均的に毎世代、二人の息子が生まれたとしたら、2の10乗(約千倍)と言う生まれた人数になります。この大勢の人数の中に、毎世代、坂崎家から数人しか細川家臣になれないので、坂崎の苗字の平民(家臣でわない方)結構居たと思います。明治時代の初めに、熊本の近辺に住んでいた坂崎の苗字を使っていた住民は、多少しか細川家臣でわないけど、殆ど全員は16世紀の坂崎伝助の子孫と言えるかもしれませんでしょうか。

誰かは、侍系と平民両方が載っている、戦国時代から明治時代までの約三百年間、坂崎家系図を持っていますでしょうか。家系図の情報を教えていただければ、幸いです。メールアドレスはLNSakazaki@yahoo.comです。

ありがとうございます。

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