津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■豊国廟再建に命を捧げた男、幽齋公女・伊也の嫡男・萩原兼従

2023-04-01 08:14:45 | 歴史

 熊本市の立田山の泰勝寺の西脇から、立田山山頂に到る道脇に「豊国廟跡」がある。
しかしその場所のしめ縄が巻かれた岩などもどうやら豊国廟とは関係ないもののようだ。
秀吉没後、慶長4年加藤清正によって建立されたとされるが、現在ではその場所さえ定かではなく特定されていないというが、これは徳川家康による徹底的な豊臣廟排除の意向が関係しているのだう。

 秀吉は慶長3年8月18日に亡くなったが、その死はしばらく伏せられていた。
その後遺骸は密かに運び出されて、阿弥陀ヶ峰に埋葬され、其の後この下段の地に豊国廟が建設された。
30万坪にも及ぶ壮大な報国大明神の神領が形成された。
これに深くかかわったのが、吉田兼見の18斎年下の弟・梵舜と、兼見嫡男・兼治(室‐細川幽齋女・伊也)の嫡子で萩原家を創家させ豊国神社社務職に就かせた兼従である。
吉田神道家によって秀吉は祀られてきたが、梵舜・萩原兼従の献身的な奉仕も虚しく、豊臣家滅亡を受け徳川家康の破却命令により元和元年四月には粗方が破却されてしまった。

                                                        
                                                                 萩原兼従 (系図)

更に、参詣の道を閉鎖するように妙法院が画策し更に豊国神社神宮寺領まで取り上げたのである。
以降秀吉廟への参詣は不可能になった。
梵舜はこの不幸な出来事を「盛者必衰ノ理ハ目ノ前ニアリ、哀レ也」と自らの「梵舜日記」に記し、破却された豊国神社の御神体を吉田神道家の斎場所へ収めている。
吉田神道家による豊国廟再建の働きは、その後徳川家の援助により一縷の希望が見えたこともあったが、幕僚の反対や妙法院の抵抗などがあり、遂にその希望の火は潰えたのである。
豊国廟の再建は時代が移り変わり、今度は徳川幕府の滅亡によりようやくその道が開かれた。
明治天皇の御沙汰によって、その機運は一気に盛り上がった。
大坂・京都が廟建設に名乗りを上げたが、荒れ果てたながらも秀吉廟が残る京都の阿弥陀ヶ池の地に豊国神社が再建され、大坂では中之島の旧細川藩邸に大坂豊国神社が再建され、後には中の島公会堂の地へ移転した。
そして大坂城再建の大構想が生まれるのである。大坂城の完成と共に大坂城豊国神社となった。

 徳川家光は豊国廟再建に対しては大変理解的であったと言われる。また家光の義弟・保科正之は吉田神道家の良き理解者であり、これも同様であった。それにもかかわらず萩原兼従の願いも虚しく、夢はついえたのである。

                                 参考:津田三郎著「秀吉・英雄伝説の軌跡」

 

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