清源院とは細川重賢の同母妹で、宇土支藩興生に嫁いだ。興生が結婚生活10ヶ月、わずか21歳の若さで亡くなるが、弟・興周(おきちか)を急養子にたて相続せしめた。これが名君の誉れ高い興文(おきのり)である。
このように細川宗家と宇土支藩の間では婚姻によるつながりが深く、重賢の世子・治年には興文女・埴が正室として入っている。
さてこの治年が天明七年の参勤の際に長旅の疲れが病となり病床に就いた。病状が好転しない中、宇土支藩藩主・立禮は本藩重役・長岡主水(松井営之)から極内密の懇請を受けた。
義兄・治年にもしものことがあったときの為の継養子の話である。
細川宗家は綱利の男子が亡くなり、弟・利重の新田藩から利重の次男が綱利の継養子・宜紀が入ったことから新田藩の血が宜紀・宗孝・重賢・治年と四代続いており、立禮はこれを慮って固辞し続けた。
その際、立禮の祖母・清源院が「此義はいか躰にも御断は相立不申候」と強く説得し、ついに承諾するに及んだ。清源院の政治的才覚が細川宗家の危機回避に大きな力となった。
清源院もまた新田藩の血を受け継いだ人ではあるが、重賢公の妹として、また治年公の伯母として強力な助言であったろう。ここに細川宗家10代・斎茲が誕生することになる。
一方、宇土支藩は嫡子・立之がわずか4歳で相続することになる。
その後、斎茲の子斎樹に継嗣子がなく病床に就くと、宇土支藩・立之の嫡子・立政が本藩を相続し斎護となる。
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