津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二つの死亡事件

2017-08-29 22:11:51 | 歴史

 昨日は玄関のドアを開けることなく、終日我が家にこもりT家に関する史料を読み漁った。
T家に関連する八木田家の先祖附を読んでいるが、八木田家はわが祖母の叔母が嫁いだ家でもあり大変興味深い。
七代の十郎助は新撰事蹟通考三拾余巻を編纂した人物である。
           八木田桃水 名は政名、幼名亥之助。 十郎助と称し晩年桃水と号せり。藩に仕へ食禄
                 二百五十石、八代城付組脇及び鉄砲頭を勤む。弱冠志を興し数十年の効
                 を積み、新撰事蹟通考三拾余巻を編纂す。
(肥後文献叢書・第三巻)
                 弘化四年十月五日没す。享年六十九。墓は春日萬日山。
十郎助は大叔父を養育していたが、この老人若いころはなかなかの元気者であったらしく士席浪人格の者を殺害している。
「(文化二年)同十一月育之大叔父・八木田小三郎儀先年士席浪人被指殺候処其後行状相改数十年堅相慎當年八十□才ニ罷成極老旁格式已前之通被仰付旨如通」とあり、九十歳になった折には「長寿を被遊御祝銀二枚被下置・・・」とある。
どうやらこの事件、小三郎に特段の沙汰があったとも思えず相手方に非があったのであろう。

八木田家には他にも事件がついて回っている。十郎助の嫡子・勝助の代には「去年(天保十一年)五月縁者清田又右衛門育之浪人笠龍之助と申者又右衛門夫婦を始数人及殺害同人宅江閉籠居候段承候ハヽ速ニ罷越」たが、誰かの通報で役方を頼んだらしいが本人は自殺に及んだ。
縁者の清田家の事件であるが、天保十二年閏正月勝助は知行50石を召し上げられている。奥方かご母堂のご実家でもあろうか。
天保八年37歳で家督しているから、40歳の頃の話である。

二つの事件について手持ちの資料をいろいろ調べているが、現況その詳細は判らない。

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■三齋公覚書文案

2017-08-29 12:01:23 | 史料

                     一 市蔵書出竹原ニ無他言様ニ
                       堅申付 人のなき所にてかヽせ
                       可申す候 其方所へよひ候てかヽせ
                       可申候事
                     一 むろも兵へニ百石かそう可遣間
                       宇さ郡荒木村生田権内
                       上り知ノ内これも書出かヽせ可
                       申候 かそうとして百石遣先知
                       合二百石遣と可書付事
                     一 日付ハ両人共ニ明日十六日ニ
                       かヽせ可申事
                     一 代官かへの事書付可上候事
                     一 右知行ノ目録も候ハヽかヽせ
                       可申事
                        已上  次兵へ

 これは寛永元年に三齋が志水次兵衛に対し(若枝)市蔵と室茂兵衛の加増に関し指示したものである。
一行目の竹原とあるのは惟成(墨齋玄可)のことであり、隠密に御書出を作成するように指示している。
市蔵を若枝氏と特定できるのは、八月十三日付の別途の文書で若枝の名前を挙げて同様の指示をしていることによる。

            ○ 室 茂兵衛  三斎様御附中津ニ相詰候衆 二百石 (於豊前小倉御侍帳) 
            ○ 若枝 市蔵  三斎様御附中津ニ相詰候衆 二百石 (於豊前小倉御侍帳)

 寛永九年の三齋公の八代城入城に二人の名前は見えない。

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