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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

quiyota xichisuque(清田七助)

2013-08-21 14:21:07 | 歴史

 2013年7月発刊の熊本歴研「史叢」第17号に、清田泰興氏の論考「細川立孝 興孝兄弟とその母・吉の生涯」が掲載されている。

この吉は(幾知とも)清田主計鎮乗入道素閑女である。兄弟に七助がある。泰興氏は主計鎮乗の兄・五郎大夫のご子孫である。
七助(石見乗栄)は大坂の陣における活躍ぶりは細川軍勢の内一番とされ、いろいろ記録が残されている。  

        * 大阪落城之趣、---被仰遺言候五月七日之御書
           一、鑓つき申候者共、一番ニ七助(以下略)
           一、七助鑓ハさきをつきまげ申候(以下略)
        * (大阪御陳)手ニ合候者--七月朔日御饗応、御褒美被下候
           知行二千五百石・御腰物直綱 鑓を合、高名は無之 (綿考輯録・巻十九)

              (1)弐千五百石 「源」大阪鑓下高名 後・石見 父・大友家 (於豊前小倉御侍帳)
              (2)三千石 (肥後御入国宿割帳) 
              (3)三千三十五石 (真源院様御代御侍免撫帳)
              (4)清田石見組(組頭)三千三十五石 (寛文四年六月・御侍帳)
        * 島原一揆の節流れ矢にあたり負傷、凱陣後病痕ト罷成・・・・病死
        * 清田石見母 清田泉院 ・・転切支丹・寛永十三年改宗(勤談跡覧-肥後藩之切支丹)
        * 清田石見室 細川幽齋女伊与(吉田兼治室)女・・・(米田家臣中山宗俊覚書)
 

そんな七助が忠興公から一番鑓を賞して贈られたという具足の図が、上記の論考に紹介されていた。
出典は「佐方文書・大坂陣褒美之次第覚書」だとされる。是には驚いてしまった。鎧の正面・胸当の部分に 

                                 quiyo
                       taxichi
                       suque 

と三段に書き込まれている。 そして兜には大友家の一族であることを示すように家紋の「抱き杏葉」を両側に一つずつ立てている。

                        

スキャンしてお見せしたいところだが、掲載の許可を頂戴していない。なんとかご連絡して許可をいただき公開したいと思っている。

 

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