雑式草書(175)にある、安永八年九月十六日日帳に次のようにある。
長岡典彌殿、明朝六ツ過より新開邊迄為試早乗有之筈之由、尤坪井廣町・米屋町・通り丁・唐人町筋・石塘之様ニ
被罷越筈ニ付、町中道筋ニ小荷駄等有之節、片付置候様規度無之通達有之度との趣、隼人様家司役より佐貮役
え頼來候、ケ様之儀是迄見合も無之、右道筋町中え及達候處、當時津出馬多キ時分、右之通ニは難及達旨候段、
致返答候様ニとの事ニ付、其通及返答候事
長岡典彌殿とは細川刑部家五代・興行の二男である。当時の当主は文中にある隼人様(宗家・細川重賢弟 六代・興彭)である。
馬で朝駆けをするから道筋の邪魔なものを取り除いて置くようにとの、刑部家家司からの申し入れである。佐貮役とは奉行の秘書役ともいえる役職だが、ここから町役へ達しがなされたのであろう。このような話は今までになかったことであり、当時は津出馬が多い時分で受け入れがたいことだというのである。
その通り回答がなされたというが、典彌殿の反応がどうであったろうかと興味深い。この典彌殿は隼人様(興彭)の養子と成り、刑部家七代当主と成る興貞である。
ご連枝とはいえいささか過ぎたる申入れではある。