唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(さんらん) (1) 概略

2015-12-12 20:08:08 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 散乱の心所にはいりますが、散乱は、言葉の通り、心が散る、乱れるということですね。乱れることは定を妨害するということでいいのですが、悪慧の依り所となるということが問題ですね。顚倒しています。『浄土論註』に「顚倒の善果、よく梵行を壊す」と述べられていますように、私たちが「よかれ」と思っていることが、実は悪慧の依り所となっていることに気づいていかねばなりませんね。
 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」(『論』第六・三十左) 
 といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。仏陀の最後の説法は「自を灯とし、他を灯とすることなかれ。法を灯とし、他を灯とすることなかれ。」自灯明・法灯明と遺言されました。法に由って明らかにされた自己を灯として人生に立ち向かうのが善の方向だと思います。それに反し自我中心に人生を考えるあり方が悪の方向になるのではないでしょうか。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。

 流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」

 といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)と。

 「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。

 散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾(そうにょうー心が落ち着かない、心を落ち着かせない事)なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁という言葉がありますね。こころが落ち着かずそわそわしているのです。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはくー心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。散乱と云う心は独立して働いていると言われているのです。
正念を障え、正定を障えることが失念や散乱をもたらすと言われていることを述べました。ここで親鸞聖人は正念・正定をどのように捉えられているのでしょうか。『教行信証』行巻には

 「いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、正業すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。
 しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。知るべし、と。」

 『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏往生の業は念仏を本とす、と。
 また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上」(真聖P189・192)

 正念・正定を仏の本願の内容とされています。「凡・聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくるなり。」と、 行の仏教から信の仏教へ質の転換をはかられました。この質の転換は「普く諸の衆生と共に」という万人に開かれた仏教への選びでもあったのです。このことを念頭に於いて今少し散乱と云う煩悩を考えていきます。

 「掉挙と散乱とのニの用何ぞ別なる」とひとつの問いをだされます。掉挙と散乱どう違うのかということです。答えは「彼は(掉挙)は解を易(か)えしめ。此れは(散乱)縁のみを易えしむ。解は理解する、考えるということですね。心がふらついて、理解したり、考えたりができない状態を掉挙というのですが、散乱は縁が変わる、心の捉える対象が一定しなく次から次へ変わって落ち着かないのです。次に「う~ん」という説明がでています。瞬間だけをみると変わらないが、一定の時間の中でみると落ち着きがないというのです。「一刹那には解と縁と易わること無しと雖も、而も相続するに於いて易わる義有るが故に」と。そうですね。この瞬間では変わることは無いですね。それが連続しないですよ。瞬時瞬時に心は変異していますからね。掉挙と散乱は私の本質・本性だと教えられます。
 散乱とは、その性は心が散漫にして、きちんとしていないということであるといわれていました。正定を障へて不正見を起こすのです。掉挙(じょうこ)と散乱との用の違いは「掉挙(じょうこ)は心を挙す境はこれ一なりと雖も、倶生の心・心所の解をして縷縷転易せしむ。即ち一境に多解するなり。散乱の功は心をして別の境を縁ずることを易へしむ。即ち一心を多境に易へしむるなり。」(『述記』)といわれています。私は「今」を考える上で大切な指摘をいただいていると思うのです。ただ単に「今」は不連続のとぎれた「今」になりますでしょう。今を大切にと云った時、瞬時を大切にすることが、つながりを大切にしているのかという問題が残ります。ですから今は「永遠の今」でなければなりません。今だけという今は縁に由って対象が変わりますから落ちつきがありません。間断しています。本当に「今」といういことは「無間断」でしょうね。散乱は「相続するに於いて易わる義有るが故に」といわれることには故あるかな、ということです。

「染汚心の時には掉と乱との力に由って、常に念念に解を易え縁を易えしむべし。或いは念等の力に由って制伏(せいぶく)せらるること飽猴(えんこう)を繋ぐが如く暫時住せること有るが故に掉と乱とは倶に染心に遍ず。」

 染汚心は末那識ですね。不善と有覆無記です。この心には掉挙と散乱との両方の力に由り、瞬時瞬時に解を変易し、縁を変易するのです。心が寂静でない状態では静かにものを考えるということはできないですね。また心が写り変わりますと落ち着かないでしょう。飽猴(えんこう)は猿です。大きな猿と、手長猿ですね。何を言っているのかといいますと、人の心は猿のようで、そわそわして落ち着きがないと。「繋ぐが如く」正念・正定・正見等の力に由って制するのですが、その間、暫らくは掉挙と散乱の状態が続くのであって、それは染心であり、煩悩だと云っているのです。掉挙は定心という禅定において心が落ち着かないという状態ですが、散乱は日常的に起こる何事にも集中できない状態をいうのでしょうか。僕は家に居てですね。何かに集中しようとすると、これがですね、今まで何も思っていないことが次から次へと思いだして落ち着かないのです。右往左往しています。『ニ巻抄』は

 「染汚と云うは、不善と有覆となり。不善と云うは悪なり。有覆と云うは、悪までは無けれ共、濁れる心なり。此のニの性は皆な穢らわしき心あるが故に染汚性の法となづく。」
 と述べています。

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