唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (25)

2017-02-20 20:03:15 | 阿頼耶識の存在論証
  

 因縁依(種子依)について
 種子依という場合の、種子生現行における種子と現行が異時であるのか、同時であるのかという問題が提起されます。
 異説は因果異時説で、難陀・最勝子、経量部の説なのです。「要ず種いい滅し巳って現の果方に生ず。」と。これは種子生現行の因果関係において因である種子(所依)と果である現行(能依)が時を異にすることを述べています。
 これに対して護法は因果同時説を主張します。
 異説が教証・理証を立てて因果異時説を主張するわけですが、護法は、彼(難陀・最勝子)が証(『集論』の解釈)として説いていることは、教証とすることは出来ないと云います。その理由は『集論』には「後の種子を引生しないということによって説いている」ものであって、種子生種子において説かれている。種子生現行において説かれているものではないからである、と。
 また異説が「種が芽等を生ずる」ことを例として挙げていることは間違いであるとします。
 護法が種が発芽するという現象を以て例とすることは誤りであると論破するのは、唯識で述べる「種」は種子生現行などの種子であって植物の種は実の種子ではない。植物の種は種子が現行として現れた存在(種も芽も現行した存在)であって、仮に種という名をつけているに過ぎないのです。植物の種は阿頼耶識のなかの種子の喩えとして用いているのです。阿頼耶識の種子を内種子というのに対して外種・外種子というのですね。内種子は存在を生じる阿頼耶識のなかの可能力で、植物の種子に喩えて種子というのです。「種子は本識のなかの親しく自らの果を生じる功能(力)差別(特別の)なり」と定義されています。功能差別とは直接、自らの結果を生じる力をいう。植物の種子は外種といわれますように、実の因果関係ではなく、擬似的な因果関係であって、勝義の因果関係ではないと護法は説きます。護法は内種による種子生現行・現行薫種子・種子生種子の三つに収められて語られます。因縁依は種子生現行・現行薫種子・種子生種子の各種相望の因縁に通じるのですが、種子依という場合、現行薫種子には通じないのです。今は三類の因縁に通じるので因縁依と云うのですね。
 護法の正義は、
 「然も種の自類の因と果とは、倶に非ず、種と現との相生は、決定して倶有なり。」(『論』)第四・十四右)
(種子の自類相生の因と果とは倶に存在しない。しかし種子と現行の相生の因と果は必ず倶に存在する。)
前半は因果異時の関係である種子生種子について説き、後半は因果同時の関係である種子生現行について説かれています。
  「種の自類の因と果とは、倶に非ず」とは種子生種子の自類相生の因果関係について説かれている。これは前念の種子が後念の種子を生ずる因果関係を述べたものであり、これは二刹那にわたるので因果異時であると説くのです。同一刹那で同じ存在が同時に並び存在することはないからである。
 後半の 種と現との相生は、決定して倶有なり というのは種子生現行と現行薫種子の因果関係を述べているのです。種と現・現と種の因果関係で、これは倶有であると。即ち、同時因果の関係を述べているのです。
(語注)
自類 - 自らと同じ種類。自類相生(じるいそうしょう)という。阿頼耶識のなかの種子は一刹那に生じては滅し(刹那生滅)、滅した次の刹那に自らとおなじ種類の種子を生じるというありようが不断につづく、そのような常に非ず、断に非ずという連続体であるから、外道のいう「常一なる我」ではない、という見解のなかで自類という概念を用いる。自類因果は同類因と等流果をいう。前時の自分の同類因によって後時の自分の等流果を受けることをいう。
 「故に瑜伽に説かく、無常の法いい他性が與に因と為る。亦は後念の自性が與に因と為るという。是れ因縁の義なり」(『論』第四・十四右)
(種子生現行が同時因果であるとどうしていえるのか、ということを論拠を引いて論証する。 - 故に『瑜伽論』巻五に説かれる、「無常の法は他性の為に因と為る」という。または「後念の自性の為に因と為る」という。これらは因縁の義である。つまり種子がすべて親因縁(直接の因縁)であることを述べているのです。)
 無常の法は無常という一般の解釈ではなく、ここでは種子を指す。何故ならば、諸法は有為転変する無常の法であるが、それを成り立たせているのが種子だからですね。無常の法が他性のために因と為りとは種子そのものを自性というのに対して、その種子より生じた現行の法を他性という。この種子と現行は同一刹那に於て種子は能生の因・現行は所生の果となる。因が果と倶に現在同刹那に有って倶に離れない種子を指し、これを種子生現行同時因果の果倶有法というと説明します。
 「是の如く八識と及び諸の心所とは、定めて各別に種子の所依あり。」(『論』第四・十四左)
 「八識と諸の心所」とは有漏・無漏を通じて皆な有り、という意味になります。(このように八識と諸の心所とには、必ずそれぞれに種子の所依がある。)
 この記述が因縁依(種子依)の結びの文になります。諸法の縁起は種子生現行・現行薫種子・種子生種子に集約され、すべての縁起の因は種子であることを明らかにしています。種子を直接因として一切の諸法は展開されるのですね。私の生存を成り立たせているのが阿頼耶識の中の種子であり、その種子が現行し、薫習し、種子から種子へと刹那刹那に受けつながれていくのですね。
 「種子とは阿頼耶識(本識)のなかの親しく自らの果を生じる功能差別なり」(『選註 成論』p31・ 『新導本』巻第二・p14)これを以て因縁依(種子依)の記述が結ばれます。

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