唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (10)  小随煩悩 忿

2015-06-02 20:41:09 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 忿の心所(杖を持って人をなぐろうと思う程にいかる心)
 前半部分は、忿の性について説かれ、後半部分は業について説かれてきます。
 「云何なるをか忿と為す。現前の不饒益(フニョウヤク)の境に対するに依って憤發(フンポツ)するを以て性と為す。」(『論』第六・二十三左)
 不饒益(フニョウヤク) ― 作害・怨害・加悪などと訳される。害を加えること。或は利益を与えない(不利益)こと。対は饒益。饒はゆたかという意味です。益は利益。この場合は、利益を与えるという、「有情を饒益す」というのが本来の意味ですから、不が付いた場合は、人の為に不利益であるという意味になります。自分の為にという、不利益な対象に対しての怒りの根底には、有情の為に不饒益という意味が隠されているようです。
 憤發(フンポツ) ― 打撃を加える、打ちのめすこと。不饒益な対象にたいして怒りが爆発するというのが憤發ですね。
 どのようなものが忿の心所であるのか?
  忿とは、現前する不利益の対象(自分にとって不利益なこと)に対して、打撃を加えることを以て、本質的な性格(本質的な働き)とする。
 意味としては二つあります。
                  時間面から不饒益
 忿とは、現前(一刹那){          
                  行相面から憤發
 「述して曰く、今は、時分と行相とを以て体を顕わす。現前の不饒益の境に対するに依るとは、謂く現在の可見聞の事或は是れ有情、或は是れ他の見に依る即ち事を縁じて生ず。五蘊論にも現の不饒益の事を説けるが故に。無漏法は是れ現の違縁の事に非ず。忿の行相は浅にして、深く取るにあらざるが有ゆえに。若し現の無漏に対せば、此は即ち是れ瞋なり。前に已に説けるが如し。」(述記』第六末・六十九右)
 忿は、過去も未来も、無漏も対象とはならないということですね。理由は忿の心所は、行相が浅いから無漏法を縁ずることができないということなんですね。つまり、忿の怒りは単純なものであるということなんです。忿が瞋の一分であるという理由もここにあります。瞋の怒りは根深いということになるんでしょうか。刹那生滅の現在現前している対象に対して起こる感情なんですね。
 不饒益の対象とは、
  「現在可見聞事」(現在の見聞したこと・五官にとって不愉快な事)、或は、他者(自分の気に入らない有情・生物)や他見(自分の気に入らない見解・言動・思想のすべて)を対象として怒りを発することなんですね。これは非常に広い意味での自己正当性に対する義憤なのですが、根底には「自分にとって利益か不利益か」という欲がつき纏っているのです。
 最初の文脈から矛盾をするわけですが、この「自分にとって」という自分の存在の不確実性を通して、不確実な自分(罪根深)を知らせてきた智慧の光が消されてしまうことに対しての怒りという面が隠されていると思うんですね。
 「「罪根深」というは、十悪五逆の悪人、謗法闡提の罪人、おおよそ善根すくなきもの、悪業おおきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かようのあさましき、さまざまのつみふかきひとを、「深」という。ふかしということばなり。すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。真実信心をうれば実報土にうまるとおしえたまえるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。」(『唯信鈔文意』)

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